曖昧な自分にうんざりしたのでブログを書く

言いたいことや考えたことをはっきりと言葉にできなくて、いつも曖昧。ぼんやりしている。
言葉にするのが苦手で、それでも日記やブログを書けば、少しは言葉にする練習、訓練になるのかなと、ポツポツ書いたりしている。


が、書いたところで、モヤモヤしたものは一向に晴れることはなく、自分は一体どこに向かっているんだろう?と、不安に似た焦燥感がこみ上げてくる。書いてもスッキリしない、むしろ逆効果なのであれば、いっそ書かない方がよいのでは?と思ってしまう。


いや、そうではないだろう。モヤモヤがいつまでも晴れないのは、きちんと言語化しきっていないから。それゆえ、いつまでもモヤモヤは鎮座し続ける。ただ、なんとなく、曖昧にモヤモヤと、なんとなくなんとなく。そして、うんざりしている。


その状態をいい加減どうにかしたい。


では、どうすればいいのか。


考えたのは、拙くてもいいから、思うことを書いてみるということ。何も名文を書く必要はないのだから、とにかく言葉にしてみる。結局のところ、言語化に慣れていなくて、ここは荒療治的にガシガシ書いたほうがよい気がする。


忙しいなら忙しいなりに思うことを書く。


今の状態を変えたいのであれば、動くしかない。


細かいことを気にすれば、ますますモヤモヤしていくばかりだ。


細かいことは気にしない。
気にしたところで何も変わらない。
自分で自分を疲れさせるだけだ。


曖昧な自分にうんざりしたのでブログを書く。


ブログを書いて、今の状態を変えたい。そんな風に思っている。




年齢の見えない壁

40代の知人の話。
とある会社のパートの採用面接を受けて、落ちたとのこと。彼女が言うには、同じく採用面接に来ていた30才くらいの女性の方が採用されたんじゃないかと。
「まあ、どうせ採用するなら少しでも若い人のほうがいいよね」と知人は溜め息。
知人が応募したパートの仕事は特に資格や経験を必要としない仕事なのだと思う。そういう仕事の場合やはり若い人の方が体力もあるし、動きもいいし、仕事のやり方などいろいろなことを覚えるにしても、若い人の方が覚えは早いだろう。
雇う側は若い人を求める傾向にあって、年をとっていると不利になるというのは現実にあるようだ。
「せめて私が32くらいだったらなあ」と知人は冗談ぽく言っていたが、もし仮に32才だったら同じ日に採用面接に来ていた人ではなく自分が採用されていた自信があったのだろうか。


思うに、女性が結婚や出産などで一度仕事を辞め、しばらくブランクがあって、また働き始めるというのは、相当大変なことで、そのまた働き始めようとしたときにぶつかるのが、「年齢の見えない壁」なのだと思う。
雇う側ははっきりとは年齢について制限は出さない。出さないけれど、応募者の年齢を一人一人チェックして最終的に採用不採用を決めているはずで、どうせ採用するなら少しでも若いほうがいいと考えるであろう。若いと体力もあって、物覚えも早くて、と考えるのは当然で、まあ年をとっていると、個人差はあるものの、図々しかったり、口ばかり達者だったり、年上風を吹かせたりで、扱いにくいとそう考えてしまうのも、いたしかたない。
年齢で差別しないでほしいと思うけれど、雇う側には雇う側の都合があるので、こればかりはどうしようもないのかなと。応募するとき年齢を詐称するわけにもいかないし…。
では、資格や経験があれば、年齢で差別されないのか、といえば、うーん。どうだろう。そのへんについては少し考えて、日を改めて書いてみたい。



将棋はじめました!

そういえば、これといった趣味といえるものが私にはないなぁと、ふと思ったわけで。
語学の勉強が趣味といえば趣味だったのだけれど、これはもう過去形かな。最近はほとんど勉強してなくて、うーん、読書も趣味といえば趣味だけれど、こちらは広く浅くで、語れるような作品はないかな。まぁ熱しやすく冷めやすいのかもしれない。でも再燃することもある。
で、最近再燃しているのが、『3月のライオン』で、こちらはアニメも今放送中なのだけれど(2016年11月現在)、つきあいとしては漫画のほうが長いわけです。
漫画の最新刊がこちら(2016年11月現在)

プロの棋士が主人公の漫画で、対戦ももちろん出てくるのですが、実のところ、私は将棋をあまり知らなくて、どういう駒があるかは知っているけれど、個々の駒の動ける方向とか、そういうのはだいたいしかわからない。漫画の中にでてくる、穴熊というのも、「なにそれ?」な状態。あとは「居飛車」も、聞いたことはあるけれど、よくわからない・・・。


将棋に詳しくなったら、きっともっとこの『3月のライオン』は面白いだろうなと、そう思ったわけで。あとは、帰省したときに家族で将棋できたらいいよね!とか。趣味として将棋を「よし、はじめよう!」というわけで、まずは将棋セットを買いました。超入門向けの。

NEW スタディ将棋 (リニューアル)

NEW スタディ将棋 (リニューアル)

Amazonでの評価が高かったと、駒の進める方角(矢印)が駒に書いてあるので、これはなんて親切!これは買い!でしょ!!と、サクっとポチりました。
駒も将棋磐も木の感じでよい感じ。
遊べる目安は5さい以上と書いてあるので、お子さんに将棋を教えたい人もよいかも。
とにかく、駒の進める方角(矢印)が駒に書いてあるので、便利。これならすぐに覚えられる!
でもまぁ、細かいルールもあるので、そのあたりは、これから覚えていきます。



コタツほど人を堕落させるものはないのでは?

コタツを出した!
コタツ布団のカバーを新調した!
コタツ布団のカバーというのは案外高いものだ。せっかく買うのだからと、気に入るものに出会うまで、探し回ってしまった。
コタツ布団は去年も使っているものだけれど、カバーが新しく気に入ったものなので、それだけでニンマリしてしまう。
目に入るもので気分が良くもなるし悪くもなるものだから、視界に入るもの、特に長時間視界に入るものは好みのもの、百歩譲って不快にならないものにしておきたい。気に入らないもの不快になるものは極力視界に入れないことだ。


コタツは一度入ると出られなくなるものだ。コタツの引力は凄まじい。その凄まじさに、私はひれ伏すしかない。そして、そのまま、うたた寝。うたた寝最高。うたた寝は気持ちよい。うたた寝から目が覚めたあとすっきり感が好きだ。


タイトルに「コタツほど人を堕落させるものはないのでは?」と書いたが、暖かさに身を委ねることが堕落というのなら、私は堕落してもいい。物理的な暖かさは心も暖かくしてくれる。心地良いこと(心地良くすること)、それは私にとって何より優先することだ。他にも暖房器具はあるけれど、私はコタツ推しだ。


外に出ればストレスフルだ。体力も精神力も削られまくる。疲れて帰ってくる。家の中でくらいリラックスしたい。だらだらしたい。ごろごろしたい。本を読んだり、好きなことをしたい。


冬という魔物と戦うには、武器が必要不可欠。その武器に、私はコタツを選ぶ。迷わず選ぶ。
魔物の息は長い。意外と長い。長期戦とわかっているなら、それ相応の策が必要だ。


いつのまにか1000字以上書いてしまった。
寒くなってきたのでコタツを出した。ただそれだけのことなのだけれど。でもやっぱり私にとっては特別なことだ。


コタツの圧倒的存在感。
その存在感に私はひれ伏す。
ひれ伏しながら、これを書いている。新しいコタツ布団カバーでちょっとハイテンションになりながら。




逃げ出したという記憶を残したくない

逃げ出したという記憶を残したくない。
そんな風に書くと、ブラック企業の格好の餌食になってしまいそうだけれど、でもまぁ逃げなければヤバイと思ったら逃げる。それはわかっている。自分を守るための逃げは有りだと思う。


ただ、安易に、まだやれるのに、まだ未練があるのに逃げ出したくない。つまりはそういうことだ。


仕事をしていて嫌なことは山ほどある。次から次へとモグラたたきのように現れてくる。でも、そのひとつひとつをシリアスに受け取っていたら、身がもたない。


どうしても譲れない一線というのは自分で決めている。そこを超えてこない限り、領空侵犯されない限り、まぁたいていのことはスルーしている。仕事を続けていくには「スルー力(りょく)」は必要だ。


適当にスルーしつつ、なんとかなんとかやっていくしかない。逃げ出したくない。まだまだやりたいこと、やってみたいことがある。やれるかどうか、それはやってみないとわからない。


逃げなかったら、たぶん、良いこともあると思う。
いつか良いことがあると信じて、なんとか進むしかない。




そういえば、逃げだす記憶といえば、「3月のライオン」でも似たような台詞があったような気がする。あれは、何巻だったろうか・・・・・・。





意見を認めようとしない人について考えてみた

なんといいますか、私に対してだけではないと思うのですが、発言した意見を認めようとしない人がいて、必ず反論的な意見を頂戴します。最近はその人と話すのも億劫になっていて「どうせ話してもアレコレ否定的なことを言われて、最終的には相手の意見をねじこまれるだけだしなあ」とウンザリするパターンの繰り返しだったりします。


私の意見が未熟だとか、くだらないとか、そういう風に思っているのかもしれないし、自分の意見の方が優れている、経験的にも実力的にも自分の方が上だと本人も思っていて、まあそれは否定しませんが、でも下の者の意見をそう簡単に潰していいものなのかと思うわけです。とりあえず聞くは聞くけど、でも認めない、採用しない、検討にも値しない、みたいな態度は、反感を買います。そのことに本人は気づいているのか、かなり疑問かな。


薄々気づいていても、でも曲げられないんだろうと思います。自分の意見ややり方を。それまでのキャリア(経験)や自分の職人的な気質が他を認めたくない、部下は黙って従って、結果だけ報告すればよし、みたいな。


まあ黙って従ってやることだけやっていればいいというのは、楽ではあるけれど、なんというか、仕事をしながら感じる違和感は、もう溜まっていくばかりで、だからこそ意見するわけですが、「いちいちうるさいなあ」とか思われていそうで、でもまあ仕事なので、やはり言うべきことは言いますね。言って認められないとしても、それでも言う。そういうスタンスはブログを書き続けていることで身についたかもしれません。


そのうち真っ向から対立することになるのかな、とも思いますが、波風をたてるのは好きではないので、その時は適当に折れます。折れるのは嫌ではないです。相手を打ち負かして、以後険悪な関係になるよりは、一歩引く方を選びます。


対立する意見といっても、どちらが本当に正しいかわからないことはよくあります。ずっと後になってわかることもあるし、どっちもどっちだった(どちらも正しくなかった)ということも。


他者の意見を認めようとしない人は、たぶん今、余裕がないのだと思います。簡単には認めたくないとか他者の意見に従えないプライドがあったり、自分の意見、やり方に自信や確信があったり、それはその人を支えるものでもあるので、他者は否定してはいけない。たとえ、砂の楼閣であっても、それを他者が崩していい理由はない。


余裕がある人は、自分の意見があってもそれを押しつけたり、ねじこんだりはしないんじゃないかと思います。相手の意見をうまく取り入れつつ、かつ自分の意見ややり方も継承させるような、まあ理想論でしかないかなあ。やっぱり少しは私の意見も聞いてほしい、認めてほしいと思っているのかもしれません。


長くなってしまったので、このへんで。


眠るのがこわい

ここのところ夢見が悪くて、怖い夢、嫌な夢ばかり見ていて、眠るのがこわい。


忙しかったり、ストレスが溜まっているせいで悪夢を見るのかもしれない。眠ってストレスを解消するつもりが、逆に悪夢のせいでストレスが溜まってしまって、本当によくない。寝ても疲れがとれず、回復できないでいる。


夢は昔からよく見るほうだった。でも悪夢ばかり見るようになったのは最近だ。


眠くはなるけれど、また悪夢を見るんじゃないかと思うと、眠るのがこわくなる。


見る夢をテレビのチャンネルを選ぶみたいに、見たい映画を選ぶみたいに選べれば、眠るのが楽しみになるのにね…。