砂山が形になるとき

毎日の仕事が、やってもやっても終わらないのは積んでも積んでも決して高くならない砂山のようだ。
手を砂だらけにして、積んでも積んでも崩れてくる砂山を作って、疲労感だけが自分の中に積もっていく。積もり、沈みこんでいく。


沈みこんだところで、一度その手を離した。
胸が黒焦げになるように熱く苦しかった。
もう砂を積むのはイヤだと思った。


積めなくてもいい。
これまでやれるだけのことはやってきた。
だから、もういい。


いろんなものを我慢して、感情を殺して、そこまでしてしなければいけない仕事があるのだろうか。



仕事中でも自由に気持ちを、感情を吐露できる人が羨ましかった。
その一方で、どうして、そこまで感情を表に出し、周囲をやきもきさせるのだろうとも思った。


ブレない、安定感が仕事をするときの姿勢として必要だと思う。仕事中イライラとし声を荒げる人、不機嫌をあらわにする人は、正直ではあるけれど、自分のことしか考えていない、周りのことは考えていない、目に入っていないのだろうとも思った。誰でもそれぞれの仕事を抱え、大変で、その大変さはその人しかわからないものだったりするのに。



沈みこんだときも、淡々と。こつこつと仕事をするのがかっこいいと私は思っている。
憂鬱なこと、嫌なことも、とりあえず、そのままで、無理に解決しようとせず、とにかくやるべきことをやる。やっぱりやるしかない。



私は再び、砂山を作り始めた。
今度はもう無理はしない。
休めるときは休む。
無理だと思ったら、断る。
良い人を演じて、つぶれるのは自分だ。


さらさらと崩れやすい砂山だけれど、でも、今見ると、以前より積みあがっていることに気づいた。もう更地ではない。自分ではよくわかっていなかったけれど、これまで続けてきたことは無駄にはなっていないと。砂山が形になってきていると。砂は少しずつ積もり、固まり、少しずつ強くなってきている。


もう0ではない。


それがうれしい。


これからも、できることをやる、できることからやるしかないと思う。
淡々と、こつこつと。



炊飯器でおかゆ

胃が疲れているのか消化不良気味で、そういうときは思い切って絶食するのが良い。
水分はもちろん取る。温かい白湯など。


そして少し食べられるかな、と思ったら、おかゆ。
炊飯器に「おかゆモード」があったので、試しに使ってみた。
炊飯器の内釜にあるとおりに水をいれた。
「さすがおかゆ!こんなにも水をいれるんだな」と思いつつ、
あとはスイッチをいれて、炊飯器がお仕事。


できた!


ビバ!炊飯器!


あつあつのおかゆ。
ごましおがあったので、ごましおをぱらぱら。
塩味はあったほうがいい。
うーん、おいしい。


そして、書いておきたいのは、おかゆは思っていたよりもたくさんできるということ。
水を多めに入れたこともあり、米はその水を吸って期待以上に膨れてくれる。
食べても食べても、まだある感じ。


次におかゆを作るときは、作り過ぎないようにしよう。



2017年にやりたいこと

今週のお題「2017年にやりたいこと」


やりたいことは新しい仕事にチャレンジすること。
そのためには勉強も必要だし、勉強するためにも時間をうまく使うようにしたい。


去年は本当に仕事が忙しくて、本もあまり読めず、ブログも書けなかったのが心残り。
なので、今年は本をどんどん読んで、ブログも週に1か2更新したい。


読むことは刺激になるし、書くことで考えていること思っていることを確認できて、迷子にならずに済む。


迷子?
そう、迷子。たとえるなら、人生の迷子。


何がしたいか、何をやっているかわからず、やたらと右往左往している人を見ると「人生の迷子」になっているのかな、と思う。


とりあえず、自分の現在地、現在の状況がわかれば、それから先のことも考えられる。
目的地(ゴール)を改めて設定したり、そこまでの行き方を考えてみたり。


まぁ、無理に目的地(ゴール)を決めなくてもいいとも思うし、なんとなく進めるほうに進んでいく。それも有りだと思う。


自分ひとりの力ではどうにもならないことは多々あるわけだし、そもそも自分ひとりの力でなんとかなる、と思ってしまうのは驕りだ。


でもまぁ、まずは自分でやれることはやってみないとね。千里の道も一歩から!


新しい仕事にチャレンジ。
そのための勉強。
読書。
ブログを書く。


とりあえず、4つ。2017年にやりたいことをあげておくことにする。



年をとってると雇いたくないという意見

いくら経験があっても、年をとっていると雇いたくないという意見を聞いた。
「えっ、経験がある人のほうがいいでしょ?まったくの新人よりも即戦力になるし」と私は思うのだが、まぁその職場の平均年齢よりも相当上となると、やはり年上ということもあるし、扱いにくくなるのだそうだ。
そして、ある人いわく「年をとってると、だいたい頑固になってるし、ずうずうしい人が多いし、加えて自分の経験を鼻にかけていたり、プライドが高かったり、上司が自分より若いと素直に従わなかったりするし、とにかくね、扱いづらいんだよ」と。


まぁ、その人が言うのも一理あるなぁと思うわけで、そうなると年をとってからの再就職や転職はかなり厳しいということになる。


雇う側の理屈は絶対だ。
こればかりはどうしようもない。


komoko.hatenablog.com
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これまでいくつも転職関連の記事を書いているけれど、年齢の壁というのはそれまでさほど意識していなかった。資格があれば、経験があれば、なんとかなるんじゃないかとそう思っていた。でも、ある人の、経験があっても(資格があっても)、年をとっている人は扱いにくいから雇いたくないというその意見も、私の経験からしてわからなくもない。自分よりも年上の人が本来やるべき仕事を、なんだかんだとうまく言いくるめられて、押しつけられたことがある。「若い人はやっぱり仕事がはやいわよね」などと後から言われたけれど、「いや、そんなうまいこと言って、単純に自分がその仕事をしたくなかった。残業したくなかった。ただそれだけのことでしょ?」と言い返したかったが言い返せず悔しい思いをした。年をとっている人が皆そういうわけではないのだけれど、老獪という言葉も昔からあるわけだし、まぁ、一度仕事を押し付けられてものすごく大変だったので、以後術中にはまらないよう細心の注意をはらっている。


年をとっていても謙虚で尊敬できる生き方をしている人もいる。私もそうなりたい。融通がきく、臨機応変さがある人になりたいし、いくら忙しくても後輩に仕事を押し付けるようなそういう人にはなりたくない。


ある程度年をとってしまうと自分というもの(スタンス)が固まってしまって、自分でもなかなか変えられないというのはあるように思う。しかしながら、それが周りが迷惑を感じるような、眉間にシワを寄せてしまうような、そういう固まり方はしたくない。となると、自分をちょっと離れたところから客観視する時間を持ったほうが、自分の固まり様に気づけていいかもしれない。


うまくまとまらなかったけれど、長くなってしまったので、このへんで。



苦手なことから逃げないということ

日常や仕事において、どうしても苦手なことはやはりあるものだ。
その苦手なことを苦手なまま放置することで、余計につらくなったり劣等感にさいなまれたり、自分で自分がイヤになることも、ままある。


「苦手なものは苦手でしょうがない。なんでも完璧になんてできないよ」
そう言い聞かせるものの、でもやっぱり苦手なものをどうにかしたいと思ってしまう。


特定の一個人に対してはっきり意見するのが、私が特に苦手とすることで、「ここははっきりその人に言わなきゃダメっしょ!」という場面で言えなかったりする。言ったことに対する相手の反応や影響が怖い、良い方向に向かえばいいけれど、相手を傷つけたり、逆上させたり、そういう結果になることも可能性としてはあるわけで、まぁカジュアルな言葉で言えば、「へたれ」なのかな、と。


今、相手に自分の意見を伝える際の好ましいやり方をいろいろ考えている。
例えば
・「ちがう」とか「だめ」とか、否定する言葉からはじめない。
・あれも、これも、それも、と連続でまくしたてない。
・曖昧に意見されても、なにを言われているかわからなくてイラッとなるものだから、できるだけ明確に具体的に簡潔に言う。


もっとも、最後の「明確に具体的に簡潔に言う」これは本当に難しくて、自分の意見を言語化した場合、なんというかあまりにも露骨な、身も蓋もない言い方をしてしまうのは、私としては好きではない。やんわりと、しかしながら相手に確実に伝わる、そんな言い方はないのだろうか。


黙っていても伝わらない。言うべきときにはきちんと言う。それはわかっている。わかっているけれど、人に対して面と向かって意見を言うのは苦手だ。苦手なものは苦手。でも、そろそろその苦手をどうにかしたい。苦手なことからずっと逃げている自分をどうにかしたい。


他にも苦手なことはあるけれど、逃げずに対処していきたい。何もしないでいれば、その何もしない自分を責めて、落ちこんでしまうだけだろうから。





仕事を面白くするのは、自分。

うまくいかなくて、つらいと思うことも多々あるけれど、でもまぁ仕事というのはそういうものだと割り切って、次の仕事にとりかかる。気持ちの切り替えは本当に大事だ。
とにかく
・手抜きをしないこと
・細かいところを見つつも、全体や流れを見ること
・仕事のゴールを意識すること(ゴールを設定すること)
この3つをいつも頭においておくとともに、なにより、思わぬことがおきても慌てず、冷静に対処する「保険」を容易しておくのも大事なことだ。「備えあれば憂いなし」というのは仕事についても言えることで、とにかく早めに準備しておくことだと思う。


仕事をしていて「これでいいのかな」と思うときもあるけれど、でも、そこで止まってしまうと動いている仕事に支障がでてしまう。なので、私は悩みつつも動く。自分を信じて、あれこれ迷わず、とにかくやってみる。
自分がいいと思うやり方でやるほうが、最終的には納得するものができるし、仕事の種類にもよるけれど、いちいち周りに「これでいいでしょうか」「これはどうやったらいいでしょうか」と聞いていられないのが現実で、やはり皆それぞれに自分の仕事で忙しく、入社1年目の新人でもない以上、自分の仕事は自分でどうにかするのが働くということなのかな、と。いちいち上司におうかがいを立てないといけない仕事というのも、まぁあるのだけれど。


で、タイトルにも書いたのだけれど、仕事を面白くするのは自分で、仕事を面白くするもしないも、結局は自分次第じゃないかな、と。


どうせ仕事をするのなら、とことん面白くやってやろうじゃないか、と最近思っている。仕事の結果というものはすぐには現れないものだけれど、まぁそんなもんだよね、と思えば、鷹揚になれるし、なにより仕事に打ち込んでいるあいだは他のことは忘れていて、仕事に集中しているその没頭感が気持ちいい。これに達成感が加われば、やっぱり仕事は面白い、となる。没頭感と達成感を味わえる仕事というのは、天職と言ってもいいんじゃないかと思うのだけれど、天職で食べていける(生活していける)かどうかはまた別の問題で、まぁそれについては、いつか書けたら書いてみたい。




相手のことを考えながら説明するということ

相手がどれくらい知っているかとか、どれくらい知りたいと思っているか、そのあたりを見極めておかないと、説明してもわかってもらえない、説明が徒労に終わるというのは、何度も経験してきた。


専門用語を知らない相手に専門用語を使うのはできることなら避けた方がいいし、もし仮に使わなければいけないなら、専門用語の説明をしなければいけない。


相手はこれくらい知っているだろうと思って話していたら、全然知らなくて、キョトンとされたこともある。


実は私は説明は苦手だ。言葉だけで説明するのは限界があると思うし、むしろ絵に描いたほうがわかってもらえる場合も多々ある。


私は絵を描くのは好きだし得意なほうだと思うけれど、でも、その絵を見てわかる人ばかりでもなく、絵を見て判断、解釈するのが苦手だという人も実際いる。絵自体がわかりにくいとか、下手だとかそういう場合もあるけれど、絵が意図することを汲み取れない人、意図することを曲解してしまう人がいるのも確かで、絵が説明伝達の万能ツールでないことを最近思い知らされたばかりだ。


どうすれば、相手に伝わるのか、わかってもらえるのか、考えこんでしまう日々が続いている。長々と説明されてうんざりしてしまう人がいる話は最近ブログで書いた。一方で、言葉が足りなくて伝わらないこともあるし、言葉が足りなかったせいで相手が的外れな憶測をしてしまうこともある。よくわからなかったことを勝手に想像で補足して解釈理解してしまうというのは、まあ私も時々してしまうことなのだけれど、そういうとき、だいたいその解釈は間違っている。想像は事実とはたいてい違うものた。少ない情報で理解するのは難しく、誤解を生むものだと、これもまた最近思い知らされたことだ。


ともかく、伝えたいのであれば、相手のこと、相手の状況、相手の知識の有無など、考えながら説明するしかない。説明の順番も大事だし、もしかしたら結論から先に言ったほうがいいケースもあるだろう。また、相手が欲している説明かどうかも気をつけたい。わかっていることを延々と説明されるのは苛々するもので、的はずれなことを説明されるのも苦痛のなにものでもなく、説明の最中、相手の反応、様子をよく見るのは大事なことだと思う。そして、上から目線で説明していないか、早口になっていないかも気をつけたいところ。


相手のことを考えながら説明するということ。
それは、なかなか難しく、奥が深いことだ。
うまく説明できなくて、凹むこともあるかもしれないけれど、それでも言葉を使って、時には絵を使って、めげることなく説明していきたい。