仕事熱心ということ

ある人から「仕事熱心ですね」と言われた。
その人が接する人のなかで、とりわけ私が仕事熱心な人らしく、私は言われて驚くとともに、思ってしまった。他の人はもっと仕事に対して冷めているのか、と。


私が見るに、まあいつも不機嫌そうに仕事をしている人も確かにいる。疲れていたり、忙しくていっぱいいっぱいだったりするのだと思う。淡々と黙々と仕事をしている人もいるし、しょっちゅうトラブル対応に追われいる人もいる。トラブル対応でいっぱいいっぱいになり、肝心の仕事が雑になっている人もいる。雑な部分というのは、意外と目立つもので、仕事なのにそんなに雑でいいの?と私は思うのだけれど、私はその人の上司でもなんでもないので、大きな支障がないかぎりあれこれ言わないようにしている。テキトーに仕事をするのもその人の自由だ。もしかしたら当の本人は雑なつもりはないのかもしれないし。



話を戻して、「仕事熱心」というのはほめ言葉で、見る人はちゃんと見てくれているのだなと、うれしくなる。


手持ちの札、スキルを総動員して、決して手を抜かないことをモットーとして仕事をしているのだけれど、仕事は次から次へとやることがあって、まるでRPGゲームのように楽しい。夢中になっているその様子は仕事熱心とその人の目にうつるのだろう。


ただ、夢中になりすぎて、周りが見えなくなっているときもあるから要注意だ。仕事はチーム(課で)するもの。自分ひとりの仕事だけでは成立しない。


転職前、毎朝ゆううつで、行くのが嫌で嫌で仕方がなかった。今はそういうことがない。むしろ夢中になってしまうというのは、転職してよかったということになるだろう。もう転職前の仕事に戻ろうとは絶対に思わないし、それどころかもっと早く転職しておけばよかった!とすら思う。まあ、そんなことを今更言っても仕方ないのだけれど……。
転職したいのなら、少しでも若いうちに。ということを以前どこかで書いた気がするけれど、何度でも、自分に合う仕事に出会えるまで、あれこれやってみるのも、一つの手かもしれない。





相手の感情を考えるということ

相手の感情を考えずに、つい言ってしまうことがないだろうか。
いわゆる余計な一言というやつを。
あるいは、できれば言わずに心にとどめておいたほうがよいと、自分でわかっていたのに、気づいたら口にしてしまっていたとか。


こういうことを言ったら、相手の感情を害するだろうな、と予想し、また99%確実に害するとわかっていて、それでも言ってしまうのは、一体どういうことなのだろう。


言いたいことは言う権利がある。
それも一理ある。


しかしながら、言ったあとで、自分にとって利益があるかというと、むしろ逆で、「しまった」「言わなきゃよかった」と後悔の念に駆られ、相手との関係も苦しいものになることが本当に多い。嫌われたり、嫌いを表にはださないけれど、無言で距離をおかれたり、あるいは敵対心をもたれたり。相手の感情は相手のもの。相手に感情は、そう簡単に収拾がつくものでもなく、あとで謝ったとしても、果たしてどこまで関係を修復できるのかと考えてしまう。


言いたいことを言うとき、そこに愚痴や不満や相手を卑下するようなそんな気持ちがあると、言われたほうは確実に気分を害する。相手の気分を害させて、それでよい気持ちになるのは、褒められることではない。愚痴や不満の吐き出し先が特定の個人となると、なにかしらの問題(トラブル)の勃発につながるだろうし、さりとて、愚痴も不満も言えないとなると、自滅、自爆という可能性もなきにしもあらずで、さてさて、どうしたものだろう。日記などに、こっそり書き綴り、吐き出すのが、特定の個人を傷つけず、それでいて自分はすっきりする方法、と言えなくもない。まぁ果たしてそれで本当にすっきりするかどうかは、個人差があると思うのだけれど。


なにものにも囚われず、「まぁどうでもいいよ」という境地になりたいと思うことが度々ある。「こまかいことはどうでもいい」「だいじなことは他にある」と。
自分の感情くらい自分で律して(コントロールして)、やたらと他者の感情を揺さぶるようなことを言わないようになりたいものだ。良い意味で揺さぶるのであればいいけれど、ネガティブに揺さぶり、害することがないよう気をつけたい。





仕事で必要とされる人の特徴について考えた。

仕事で必要とされる人の特徴について考えた。
考えてすぐに思ったのは、なにかこれといった得意分野、専門があるということ。


誰でもできる仕事しかできないのであれば、若くて体力がある人のほうがいいだろう。
若さも体力もなくなっていく自分。得意分野がないわけではないけれど、でも特に周囲から認められているわけでもなく、これといって専門もないとなると、はてさて、どうしたものか考えてしまう。



そうだね。若さも体力もなくなっていくとなると、あとは経験とか経験によって培われた勘とかコツとかセンスといったもので、なんとかしていくしかないのかな、と。あとは、得意なことを伸ばしていくとか。


で、ここまでは、今までというか、たぶん以前にも書いていることで、今日はちょっと進化(深化?)する。


得意分野専門分野ということも大切だけれど、なにより仕事で必要とされるには信頼されることではないかな、と。この人なら任せられる。この人なら、途中で投げ出したりしない、という信頼。お互い信頼がないと、仕事をし続けるのはつらいのではないかと思う。


こちらとしても、信頼して仕事を任せてほしいし、地味ではあってもきちんと最後まで終わらせることにかけては自信がある。それに仕事なのだから最後まで終わらせるのは当然だと思う。あとは、仕事の丁寧さはウリにできると思う。


仕事のスピードについても、以前よりかなりはやくなった。さまざまな経験の蓄積はスピードになるというのは、最近特に感じていることだ。やはりスピードは大事。丁寧なのも大事だけれど、でもやっぱり、最後まで終わらせること。そこだ。あとからフォローはできる。とにかくゴールにたどり着くこと。そのゴール設定を最初に誤らないこと。過程(プロセス)をきちんと踏むこと。はしょると失敗する。はしょらない。手順をきちんと踏む。流れを可視化させる。なんでもわかったつもりにならない。わからないこと、想定外のことは必ずあると思っておくこと。


仕事はすれば、するほど面白い。わからないことはいくらでも。課題はいくらでも。「これだけやったのだから、もういいだろう」と思ったところで足元をすくわれたり、想定外のことで満身創痍になったりするし、でもまぁ、良いことも嬉しいこともあるし、さまざまな思い通りにならないことの連続が仕事なのかなとも思う。仕事は相手があって、その思い通りにならないというところが、また面白いところで、とにかく自分の手札で、今の自分のスキルで挑むしかないというのも、ワクワクするところだ。


働く場所については、自分のスタンスをわかってくれるところは必ずあると思うし、必要とされたかったら、必要とされるような人になることだと思う。私の場合、今も専門の勉強は続けている。


話は変わるけれど、最近仕事をしていて、「新しいアイデアがほしい」とよく思うのだけれど、そのことについてはまた今度書こう。長くなってしまったので、このへんで。



できない自分を責めすぎたら潰れるよ。

できない自分を責めたり、自己嫌悪したり、うまくいかないのは全部自分のせいのような気がして、思考がフリーズしてしまうことがある。なんというか、何も考えられなくなる。感情も感覚も鈍くなり、そのうち食べ物の味さえわからなくなることがある。


思考フリーズも、感覚が鈍くなるのも疲れているからだろうと思うけれど、私の場合、仕事がイヤなわけではなく、仕事ができない自分がイヤで、いつまでも満足できる結果が残せない。
自分でも思うのだけれど、仕事に関して私は特に厳しい。手を抜いたり、ミスを隠す同僚が許せなかったりする。それは自分に対してもそうで、絶対に手は抜きたくないし、ミスも失敗もしたくない。(とはいえ、どうしてもしてしまうものなのだけれど)


そんな感じで、スタンスだけは立派なのだけれど、実際のところ、どれだけ結果を残せているかといえば、実感がない。以前よりは確実に残せていると思うけれど、でもそれで満足できているわけではない。まだまだ勉強が足りないと思うし、まだまだやり残したことがあって、だからまだまだ仕事をしたい。もっともっとやりたいことがある。やってみたいことがある。このままで終わりたくない。まだまだできる。いろいろなことをできるようになりたい。そう思うからこそ、今現在できない自分が歯がゆくて仕方がない。


情熱や自分の時間を注いでも惜しくないと思えるものがあるのはしあわせなことだと思う。
以前は、それが「書くこと」だったりしたのだけれど、いつしか自分が「書くこと」の限界を感じて、「書くのは、たまにでいいかな」となってしまって今に至っている。まぁ書くのが嫌いになったわけではない。書こうと思えば、こうして書けるし、無性に書きたくなるときもある。今みたいに。


タイトルに戻って、「できない自分を責めすぎたら潰れる」。そう思ったので書いた。
できない自分を責めてしまう人は意外に多いのではないかと思う。
できない自分を責めない。
どこかでも書いた気がするけれど、できないものはできない。
できることから、ひとつずつやっていくしかない。
できるようになるには、失敗してもいいからやってみるしかない。


とにかく、失敗しても自分を責めすぎないこと。
いろんな失敗をして、それが足かせになるときもあるけれど、もうそれはそれでしょうがない。
簡単には挽回できないだろうけれど、それならそれで開き直れる。
開き直って、次へ進む。次の手を探す。


よくないのは、自分を責めすぎて、それで潰れてしまうこと。
誰でも失敗はする。
失敗はするものなのだから、必要以上に囚われないこと。


毎朝、新鮮な、新しい気持ちで1日を始めたい。
今日と言う日は、あたらしい日。


もう一度「書く」。
情熱や自分の時間を注いでも惜しくないと思えるものがあるのはしあわせなことだと思う。




失敗が見えない足枷(あしかせ)となるということ

だいぶ前の失敗が、今なお見えない足枷(あしかせ)となって、先に進むことを邪魔していることに気づいた。


一度の失敗であっても、周囲の目は自分が思う以上に厳しい評価をくだすのだなあと思うとともに、一度ついたこの厳しい評価を変えるにはどうしたらいいのだろう、もしかして、もう変えられないのかな、とも思ったりする。
私の場合、その失敗は自分の精神的な弱さが招いた失敗で、もしあの時、強く決して譲らない態度でいれば、事態は変わっていたかもしれない。まあ今更どうこう言ってもしょうがないのだけれど。


失敗やトラブルというものは、自分のウィークポイントが発端になることが多いように思う。
自分のウィークポイントをどうにかして克服したいと心の底から思う。とはいえ1日や2日で克服できるわけはないので、時間をかけて改善していくしかない。


あらためて、自分についている足枷(あしかせ)に気づいて、それでなおさら動けなくなりそうにもなるけれど、逆にどういう厳しい評価がつこうとも、自分がやれることを精一杯やるしかないとも思う。落ちこんでも状況は変わらない。いろいろなことが自分が思うとおりになると思うのは、ものすごい思い上がりで、思うとおりにならなくても、「まあそんなもんだよね」くらいの気持ちでいたほうが、精神的に楽でいられるかもしれない。


今更なのだけれど、自分のウィークポイントがこれから先も私自身を苦しめることになりそうで、頭を抱えている。ここはひとつ50mプールの水を総入れ替えするくらいのつもりで、自分のウィークポイントに向かいあう必要があるだろう。


そして、こうも思う。過去の失敗が足枷(あしかせ)となっているけれど、まだ動ける。動けるのだから、幸いだ。動けば、また新しい道が見つかるかもしれない。というか、見つけようと思う。評価は評価。今更どうしようもない。大事なのはこれからだ。失敗しない人はいない。誰でも大なり小なり失敗しているもの。そう思うと少しは気が楽になる。ガチガチに肩に力が入ってそれで失敗すること、うまくいかないこともあるわけで、まあ、いつも書いていることだけれど、あまりシリアスに考えすぎないのが一番よいのではないかと思う。


長くなってしまったので、今日はこのへんで。


好きな音楽を聞いて、好きな漫画を読んで、それから寝ることにしよう。



Kindleは便利だ。すっかり電子書籍派になってしまった話。

Kindleは便利だ。
Kindle Unlimitedを利用しはじめてから、読み放題のものをはじめ、Kindle Unlimitedではないものもダウンロードして読むようになった。
読みたいものが手軽に読めるようになり、どうなったかというと、書店に行かなくなった。もちろん、全然行かなくなったわけではないが、以前の半分も行くことはないと思う。
実物を見て買いたいとは思うけれど、忙しくてなかなか書店まで足を運べない。どうしても見てから買いたければ書店へ行くけれど、品揃えのよい書店は遠かったりで、結局Amazonで買うことも多い。


Kindle電子書籍がいいのは、かさばらないこと。
紙の本だとなくしたりすることもある。他の本の密林に埋もれたり。
既に十分すぎるほど、紙の本は自宅にあるので、これ以上増やしたくないという気持ちがとても強い。


紙の本が好きだと、以前書いていた気がするけれど、今ではすっかり電子書籍派だ。雑誌も電子書籍で読む。漫画も。

昔の漫画もどんどん電子化しているので、少しずつ集めていきたいとも思っている。好きだった作品をあらためて読むのは楽しい。新たな発見もあるかもしれない。そうなると、相当な数の漫画を集めることになるので、やはり電子書籍がいい。かさばらない。かつ、デバイスさえあればいつでもどこでも読める。


いやはや、我ながらこんなに電子書籍好きになるとは、変わったなーと我ながら思う。これを読んでいる皆さんはいかがですか?


覚えてもらうということ

一昨年、仕事で何度か会っただけの人とばったり会った。
すぐに先方が私に気づいた。
わたしも顔を見て「あっ・・・」と思ったけれど、名前を全然思い出せなかった。
先方はしっかり覚えていた。
嬉しそうな表情で
「久しぶりです。お元気ですか」と。
それから「毎日寒いですね」「今からお帰りですか」そんなやりとりをして、すぐに別れた。


なんというか、何度か会って、それから1年以上会っていなかったのに覚えてもらえていたというのは、うれしいことだと思った。これから先も接点はあるかもしれないし、ないかもしれない。おそらく「ない」ほうが、可能性としては強いのだけれど、もう「関係ない」と切ってしまうのではなく、また声をかけてもらえた、それがうれしかった。仕事をしていてよかったと思った。仕事をしていなかったら、その人と会うこともなかったのだから。私の仕事がどういう風に目に映っていたかはわからないけれど、不快ではなかったのだと思う。願わくば、良い印象で記憶されているとよいなと思う。少しでもプラスになっていればよいなと。


このブログも覚えてもらえれば、やはりうれしい。
忘れられてしまわないよう、時々は更新したい。