得意分野や専門性、強みがほしいということ

自分の書くものにこれといった特徴がないのは、前々からわかっていたことだ。
得意分野や専門性、強みがほしいと思うけれど、いまだに見つけられないでいる。


まあ、ブログは趣味で書いているのだから、そんなものはいらないといえば、いらない。


いらないけれど、でもほしいと思うのは、持っていないからだろう。


ブログに限らず、
持っていないものは、欲しくなる。
別になくても困らないのに、でも他の誰かが持っていると、欲しくなるのは、どうしようもない。


欲しいものは、欲しい。
でも、手にできなくて、あきらめモードになる。無気力になる。私自身セルフエスティームが低めなのは、これも以前からわかっていたこと。


では、どうしたらいいのか。
手に入るまで、模索し続ける。
それもひとつの手だと思う。


あきらめモードにはなるけれど、あきらめてはいなくて、こうなったらいいなとか理想みたいなものはずっと持ち続けていたいなと。



こだわりすぎないということ

仕事をしていて、気になったことがあって、それが頭から離れなくて、ついつい他のことを後回しにしてしまうことがある。


気になったことにこだわりすぎて、他がおろそかになり、遅延してしまう。これはよくない。


どうすれば、こだわりをなくすことができるのだろうか。


今この仕事で大事なことは何か。
もっとも優先してすべきことは何か。
気になっていることは、あとからでもよいことではないか。


それを自分にいつも問うようにしたい。


思うに、こだわりは悪いことではないけれど、あまりにこだわりすぎると、他にしわ寄せ、支障を来すので、ほどほどにしたい。


ま、いっか。
ま、あとですればいいか。
ま、さしあたって、それは重要じゃないよね、と。



凹んだときは考え続けない。私の場合、映画やドラマを見る。

久しぶりの更新になってしまいました。


タイトルに書いたのが結論なわけですが、凹んだときに考え続けても良いことはないです。気分は強制的にでも転換させたほうがいいです。その方法は人それぞれちがうわけですけれど、私の場合、録画してたドラマや映画、Amazonプライムビデオを見たりします。


思うに、ミスや失敗、あれこれ言われ凹んだり、うまくいかなくて憂鬱になったり、それは終わったことを思い出している状態で、過去に捕らわれていると言ってもいいでしょう。


もう終わったことや過去のあれこれに捕らわれていると、これから先のこともうまくいかなくなるのではないかと。


気分をリセット、気分を換える。それは自分でできることかと。
「自分の感情くらい自分でコントロールしろ」的なことを言ってた作家さんがいたけど、うーん、誰だったか……(忘れました)。


誰かに愚痴を言ったり、文句を言ったりするよりは、自分で好きなことをしたほうが、ストレスは減るのでは?愚痴られたほうは、迷惑だったりしますし、愚痴る人に良い印象は持たれないです。文句もそう。


元々映画を見るのが好きなので、凹んだときこそ映画、ドラマを見る。その世界にどっぷり浸ります。ストレス解消になります(私の場合)。


ではでは、このへんで。
7月は1度しか更新できなくて、うーん。
8月はもう少し更新できるといいな。






自分で定義したものに縛られるということ

愛されたとか幸せだったという記憶が、根底にあると、生きていくうえで、とても支えになるというのはあるかもしれない。


もちろん愛されたとか幸せだったというのは、主観の問題だというのもわかっている。愛されたとか幸せだったとか、そういうのは自分で決めることというか、自分で決めていて、自分で自分を呪縛しているとも言える。


自分で自分の感情や状況を定義して、その自分で定義したものに縛られ、呪縛に苦しんで、憂鬱になって、苛々して、心安らかとは言えない状態はつらいものだ。そのつらさから解放されるには、いったん忘れること、その苦しいことを考えないことだと思う。


考えないことは悪いことなのか。いや、そうではない。考えても考えてもどうしようもないことはあるものだ。それなら、いったん保留にして、気持ちを落ち着かせる時間を持つ。自分をラクにしてあげる。


もっと楽しい、穏やかな気持ちで、日々を過ごして、そういう感情でいるようにするのも自分次第で、自分の感情くらい自分でコントロールしようと、まあ偉そうなことは言えないけれど、自分の感情はコントロールは可能なものだと考える。もっとも、個人差もあるので、ある程度コントロール可能と書いた方がいいかもしれない。


日々不機嫌をデフォルトにしているのは、やはり自分で、それが習慣というか、慣れというか、常態化してしまって、意外と自分では、気づいていないのかもしれない。


自分は不幸だと定義してしまえば、それに縛られる。呪縛で、苦しくなるのは自分で、それは幸せについても言えるのではないだろうか。


誰かなんといおうと、自分は幸せだと自分で定義して、よそと比べない。


定義するのは、自分。
定義したのものに縛られるのも自分。


そんなことを考えたので、忘れないうちに書いておこう。




忘れていくということ

今朝、2016年はじめの出来事を思い出せなくて、戸惑ってしまった。一年半というのは忘れるには十分な時間だろうか。


喜怒哀楽。いろんなことを忘れている自分がここにいる。


普段忙しすぎるからだろうか。


思い出す必要がないと、忘却に拍車がかかるというのはある。


つらいこと、いやなことは、努めて思い出さないようにしているというのもある。


でも、大切な出来事ですら、忘れてしまって、本当に情けなくなる。大切なことなら、忘れないはずなのでは?


どうしたら、忘れないでいられるのだろう。


思い出したいときに思い出せない。それが歯がゆい。


もしかしたら、私の記憶という容量はもういっぱいになってしまったのかもしれない。元々少ない容量で、それに経年劣化も手伝って、昔のことは忘れてしまうのかもしれない。悲しくて、せつなくて、もどかしくて、でも、どうしようもないでいる。

 


昨日よりは今日、今日よりは明日。少しでも前に進んでいく感じが好きだ。

昨日よりは今日、今日よりは明日。
少しでも前に進んでいく感じが好きだ。
積み重ねていくのが好きと言ってもいい。
少しずつ改善していくのも好きだ。


明日はこれとこれをして、今日できなかったことは明日やればいい。焦らずに。


明日はもっと良い日に。
同じようなことの繰り返しのような毎日であっても、決してまったく同じというわけではない。


どんなことが起こるかわからない。
わからないからこそ、平常心、平静で、落ち着いていたい。


前に進んでいくことは楽しいし、うれしい。
誰かに褒めてもらえなくてもいい。自分でわかっていれば、それでいい。


少しでも、ほんの少しでも、前に進めたら、それでいい。途中でやめないこと、失敗しても必要以上に落ちこまない。シリアスに、深刻にならない。


まあなんとかなるでしょう。そう自分に言い聞かせて、口角をあげる。


明日も良い1日になりますように。



人それぞれ感じ方がちがうということ

人それぞれ感じ方はちがう。それは当たり前のことなのだけれど、感じたことを口に出さないと他者には伝わらないものだ。

ある時ふと、ある人の弱気な呟きを目の当たりにして、意外性を感じるとともに、言いようのない寂しさを感じた。弱気な呟きは、簡単に言えば「ここから逃げ出したい」というようなことだった。まあ、誰でもネガティブになって、物事を前向きに明るく考えられないときはあるものだ。それを口にする人と押し隠す人がいて、私が思うに、押し隠す人は決して少なくはないだろう。特に職場などでは、本音や弱音も言わず、つとめて平静を、いつもどおりを装っている人も多いのではないか。


本音や弱音をさらけ出せない人というのはいるものだ。


さらけ出せない理由は、まあ本人自身よくわかっていなかったり。



人それぞれ感じ方はちがう。感じたことを片っ端から口にするのを躊躇うのは、表明したことによる反応が怖いというのはあるかもしれない。


その人の「逃げ出したい」という呟きは、本音であり、本当にそうすることはできなくても、でも口にすることで、わかってほしい、今逃げ出したいくらいつらいということをどうか察してほしいと、そういうことなのだと思う。


逃げ出したいほどのつらさ、それを他者が理解するのは難しい。その人のつらさ、つらい理由を想像はできるけれど、でもその想像が当たっているとは限らない。


つらい気持ちを楽にしてあげたいと思うけれど、でもどうやって?


私以外にもその弱気な呟きに気づいた人はいると思うけれど、でも皆傍観している様子で、まあ、呟いた本人も呟きを深刻に受け止めてほしそうでもなかったので、私も特になにも言わないでいた。というか、何も言えなかった。様子をみたほうがいい、といあるし、その場ですぐに言葉にできなかった。感じたことを表明できなかった。今だから、時間が経ってやっと、弱気な呟きは、つらさからくるもののだとわかる。いや、これも私が感じて、想像した結論で、もしかしたら当の本人が感じていることは、ちがうかもしれない。


人それぞれ感じ方がちがう。むやみやたらと想像してもそれは想像でしかないし、勝手に想像を押し広げるのはよくないように思う。


普段本音や弱音を口にしない人、そう思っているのも、もしかしたら私の先入観かもしれないし、私が感じていることは、私というフィルターを通したもので、つまりは、人の数だけフィルターがあると、まあそういうことになるだろう。そのフィルターは他者は操作不可なので、結局のところ、人はそれぞれ感じたように感じるということ。それはどうすることもできない。どうすることもできないのに、いろいろと気にして、想像してしまって「一体なんなのだろうね」という気持ちになったところで、今日はこのへんで。