精神的に追い詰められているとしても

精神的に追い詰められていると思うときがある。
もう限界だ、休みたいと思う。


その一方で、全く休めていないわけではないのだから(土日は休み)、もっと要領よく無駄なことをやめれば、もう少しやれるんじゃないかとそう思う自分もいる。


精神的に追い詰められているにしては眠れるし、食欲もある。


以前(といっても新卒で働いていた頃だけれど)精神的に追い詰められた時よりは、今のほうが経験や耐性がある分、大丈夫な気がするのだけれど、その大丈夫な気がするのは、日々感じる感覚を勝手にシャットダウンして、感じなくしているからかなとも思う。ぐちゃぐちゃに壊れてしまわぬよう防御のための感覚の遮断。いろいろなことが他人事のように思えて仕方がないときがある。現実感がない。今こうしてブログを書いているのも、不思議だったりする。


実はわたしは10年近くブログを書いていて、記事は2300以上あるようなのだけれど、ひとことで言えば、信じられない。本当にわたしはそんなにもたくさんの記事を書いたのだろうか。これまで書いてきたことも、薄い靄(もや)がかかったように思い出せない。忘れることは本当に得意なのだけれど、なんだかヤバいレベルの忘却力のような気がする。


もしブログの過去記事を読み返せば、当時のことを思い出して、感覚が刺激されるかもしれない。でも、今は読み返す元気がない。精神的余裕がない、と書いてもいい。感覚を無理やり刺激したくない。今、刺激するのは、剣山のトンネルを歩くようなものだと思う。


精神的余裕がない。つまり、大丈夫じゃないということ。それを自分できちんと自覚すべきなのだけれど、大丈夫じゃないと認めたがらない自分いるのも確かだ。冒頭で書いたように、もうすこしやれるんじゃないかと。


大丈夫、大丈夫じゃないの線引きは意外と難しい。一度座りこんで休んでしまえば、もう立てなくなる気がして、座りこむのがこわい。


そんなこと言わずに休めばいいじゃない。


そう言う人もいるだろうけれど、もし休み始めて、それがずるずると長くなって、そうするともう戻れなくなるような、居場所がなくなるような、そんな気がして、休めない。精神的に追い詰められているとしても、なにか支えてくれるもの、気を紛らわせてくれるものがあれば、もう少しやれるかもしれない。それは一時しのぎだろうか。一時しのぎだとしても、座り込んで動けなくなるよりは、ましだと思う。動いているうちに、少しずつ状況は変わるかもしれないし、いや、変わっていくだろう。自分の力、意思で変えられないものは放っておく(変えられないものはどうやっても変えられない)。結局のところ、「今できること」をやるしかないんだろうな。いつものわたしの決まり文句。久しぶりの更新、タイトルを入力したときは、どうなることかと思ったけれど、書いているうちに「わたしの定番」でしめくくることになって、なんとなく安堵。今日はこのへんで。



人生は映画のようにはいかないけれど

毎日過ごしている場所が世界の中心に思える
何も変わらずに続くと感じる


人生は映画のようにはいかない
人生はもっと難しい


ニューシネマパラダイスアルフレードの言葉


以前見たと思っていたのに、内容がいまいち思い出せなくて、今一度見ようと思って見たら、どうやら初めて見る映画だったようだ。
有名な映画で、ストーリーもどこかで聞きかじっていて、見たつもりになっていたのかもしれない。


冒頭のアルフレードの言葉がずしりと底を打った。重い鉄の塊が船を海底へ押し沈めるかのように。


人生は映画のようにはいかないとか、ドラマみたいなことは起こるわけないとか、そんなことを自分の中に定義してしまうと、実際そのようになっていくのかもしれない。何者にもなれない平凡な人生、それが普通の人生=自分の人生だと。ものすごく幸せでもないし、ものすごく不幸でもない。「ま、こんなもんか」「ま、こんなもんだよね」と自分を納得させて、なんというか、「平凡なのが一番」「普通がいい」とかそう思うことで救われるように仕向けている自分もいるようでいないようで、実際のところ、「平凡て何?」「普通って何?」と眉間に皺を寄せながらツッコミを入れる自分もいて、曖昧模糊のまま現在に至っている。


すべてのものは変わっていく。少しずつ、変わっているのに気づかないくらいの速度で変わっている。もちろん、いきなりガラリと変わることもあるのだけれど、おおむね基本的には少しずつ変わるものが大半だと思う。自分の意に反して変わってしまったものを受け入れるのは、つらいことだ。自分を取り巻くものがずっと変わらずに続くと思うのは、自己都合による思い込みで、どこかで聞いたことがあるけれど、人は見たいように見、自分の視点、メガネをそうクルクルとは変えられない。否、実は少しずつ変わっている。影響を受けたり、成長したり、新たな視点が加わったり。複雑に変性して、グルグルと脳内を逡巡する。私は最近特に思う。考え方や価値観、先入観、自分の中の常識、感覚、それら長年染み付いたものに思考を縛られているなぁと。


身体が薄い皮で覆われて形を保っていられるように、その人固有の価値観や考え方なしにその人の思考活動が成立しないのだとすれば、それらは縛られるというネガティブなものではなく、むしろ思考活動に必要な「循環する血液のようなもの」で、時折血が濁り、それで精神的に行き詰まり、自暴自棄になったりするのかな、と。ゆえに、濁った血を自分で浄化する方法を知っておくべきで、それをストレス解消とか息抜きとか気分転換とかそういうのかもしれない。まぁなかなかストレス解消というのも簡単にできそうでできないもの。ストレスが溜まるという言葉を覚え、その感覚を自覚してしまっているから、解消したはずのストレスは、いつしかまた溜まっていく。もし「ストレス」という言葉を知らなかったら、ストレスを自覚することはなかったのかもしれない。

選んだ道を愛するんだ

ニューシネマパラダイスアルフレードの言葉


ものすごくつらいことがあったとしても、最終的にはそれを受け入れるしかなくて、腹をくくると(開き直ると)強くなる。もう今更あとにはひけないし、とにかく今自分ができることをやるだけだ。(これは昔からこのブログにも書いていることで、結局のところ、そこに行きつくのが私の思考パターンなのだと思う)


人生は映画のようにはいかないけれど、それでも自分で道を選んで、試行錯誤して、そして、アルフレードの言葉のように、選んだ道を愛することができたら、それはすばらしいことだと思う。


ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版 [DVD]

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遠い国のパレード

2018年になって、もう3日目になっていた。
昨年は忙しすぎて、一体何をしてたのか、思いだそうとしてもほとんど思い出せない。高速で走る新幹線から見る窓の外の景色が一瞬過ぎて記憶に残らないのと似ている。


昨年のこともろくに記憶に残っていないので、今が2018年だというのも、新しい年が始まったというのも、遠い国で行われたパレードのようで、実感がない。


「忙しい=仕事がある」というのはしあわせなことだと思っている。しあわせなことだけれど、あまりに忙しいと失うものも多くて、失ったことに気づいてから呆然とする。後の祭りとはこのことか。


思うに昨年はずっと現実感がなくて、機械的に惰性で砂を噛むように生きていたように思う。


あらためて、こうして振り返るきっかけとなったのだから年が新しくなるというのは、よいことかもしれない。今まで年が変わってもなんとも思っていなかったのだけれど、振り返るのは無駄なことではなく、これからのことを考えるために必要なことなのではないかと。


一旦止まって、冷静さを取り戻す時間が時には必要で(今がそうなのだけれど)、もう昨年のようなろくに覚えていない一年に今年はしたくないなと。


遠い国のパレード。パレードを眺めている自分は無気力で疲れていて、でもそれは自分が望む自分ではないように思う。今年は落ち着いて、地に足をつけて、これだけのことをやった、と言える1年にしたい。



またブログを書こうと思った理由

2017年は10月と11月まったくブログを書いていない。
理由は単純に仕事が忙しかったから。
ブログ以外にしなければいけないことがあるとき、あるいはブログよりも面白いことがあるとき、ブログを書かなくなるというのは、まぁよくあることだ。いわゆる放置状態になっているブログもネット上に少なくない。


そういえば、いまさらだけれど、このブログも開設してから2017年の11月で10年経っていることに気づいた。


10年。
よく続いたものだ。


よく続いたというより、やめなかった、というそれだけなのだけれど。


やめたいとか、消してしまいたいと思ったことは何度もあって、それでもそうしなかったのは、優柔不断で、実行する勇気がなかったから。


そして、やめたい、消してしまいたいという気持ちと反する気持ちがあったのも確かだ。
ここまで書き続けて残っているものを、一瞬で消してしまってたまるか、という・・・。


ブログに書いて、読んでもらいたいという承認欲求は昔のほうがあったように思う。ブログで承認されることの限界を知ってしまったので、もうどうでもいいというか、まぁ10年も経つと冷めるものだな、と。ブログ熱が冷めるというか、自分自身への情熱が冷めるというか。


冷めてもなお、またブログを書こうと思った理由は、「書くことの必要性を感じたから」。
書くことは元々好きだ。書いている間は自分でもびっくりするくらい集中できて、フローな状態になる。それはとても心地よいものだ。


仕事にのめりこんで、それはそれで楽しいのだけれど、でも仕事をしている自分に「対立する自分」もいて、その対立する自分が「息抜き」を求めていて、その「息抜き」は先ほど書いた「フローな状態」で、映画やドラマを見たり、漫画を読んだりと、そういうことでも「フローな状態」になれることはあるのだけれど、でもなんというか、私の場合、映画やドラマや漫画でいつも「フローな状態」になれるわけではなく、見るだけ、読むだけというような一方的に与えられる心地よさは、そのうち慣れて物足りなくなってしまう、なんとなくちがうな、と。つまり受動的ではなく「能動的な心地よさ」を私は欲しているんじゃないか。自分で自主的に何かをする、そういうことを長い間やっていなかったな、なにかしたいな、とそう思ったところで、これはブログの出番だなと。


先ほども書いたけれど、ブログ熱は冷めているし、自分自身への情熱も冷めている。まぁ元々「自分大好き」な人間でもなかったし、いろんなことをあきらめてきたので、特筆するような特技もプロフィールもなくて、それでもなんとか生きているからいいかな、と。「生きていること」については、まあいろいろ考えていることがあるのだけれど、それはまたそのうち書こうかと。


ブログを書こうと思った理由は、「書くことの必要性を感じたから」なんて、かっこいいことを書いたけれど、要するに「また書きたい」と思ったから。シンプルに言えばそうだ。


普段から、いろんなことをいちいち難しくこねくりまわしがちだけれど、「要するに・・・」と一言で片付けられれば、すっきりと、楽になるんだろうな。そう、一言で片付けられれば、ね。


シンプルに結果を出す人の 5W1H思考

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SIMPLE RULES 「仕事が速い人」はここまでシンプルに考える 三笠書房 電子書籍

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SIMPLE RULES 「仕事が速い人」はここまでシンプルに考える (単行本)

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歯石がつきにくくなった理由

今週のお題「今年買ってよかったもの」
久しぶりの更新になります。
仕事が忙しくてブログを書く余裕がなくて、やっと書くことができました。


3~4ヶ月に1度、歯の定期健診に行っているのですが、今回歯石がいつもよりかなりついていないことが判明。
まったくついていなかったわけではないのですが、それでも歯科衛生士さんに褒められ、歯石をガリガリとられる時間も大幅減。


理由はマウスウォッシュを使うようになったからかと。

ターター(tartar)というのは歯石のことのようです。
わたしが使っているのは、かなり刺激があるので、それが苦手な人もいるかもです。


低刺激のものもあるので

次はこれを使ってみようかな。このタイプのマウスウォッシュも歯石にも効果あるかな?どうでしょう?


ちなみにわたしは食後ハミガキ+マウスウォッシュです。

外出時はこんな感じのケースがコップになるハミガキセットを持ち歩いてます。
ここ数年はこまめなハミガキのおかげで虫歯もできてないです。


こまめにハミガキできないときは

ライオン クリニカ クイックウォッシュ 450ml (医薬部外品)

ライオン クリニカ クイックウォッシュ 450ml (医薬部外品)

というものあります。これも使ってます。


そんな感じで今日はこのへんで。
これからも気づいたこととか、考えたこととか、ボチボチ書けたらいいなと。



最近わたしが疲労回復のために飲んでいるもの

最近疲れたなーと思ったら、飲んでいるものがこれです。

ポッカサッポロ キレートレモンスパークリング 450ml×24本

ポッカサッポロ キレートレモンスパークリング 450ml×24本

ポッカサッポロ キレートレモン 155ml×6本

ポッカサッポロ キレートレモン 155ml×6本

クエン酸が疲れに効くのかな。
カフェイン系の飲み物も、飲んだあとはなんか元気になった気がするんですけど、一時的。なんとなく最近は飲んでも効かなくなってきていて、このままじゃカフェイン中毒になるな、やばいな、と。


で、もともとレモン系の飲み物は好きだったので、いろいろ飲んでみたところ、このキレートレモンがいちばん私には合っているような気がします。スパークリング(微炭酸)なのも気に入ってます。


まぁ寝るのが一番疲労回復になるんですけどね。仕事があると、なかなかそう十分な睡眠というわけにもいかなくて。


でもまぁ最近はできるだけ早く寝るようにしてます。早く寝て、朝早めに起きて残りの仕事をしたり。


ブログも書きたいけれど、なかなか時間がなくて、でも書きたいことはあるので、そのうちきっと。


今はやるべきことをやって、それでいっぱいいっぱい。
毎日が経験と学びの連続。面白いです。


そんな感じで、今日はこのへんで。



意味を与えているのは自分

日々の出来事や人間関係とか、仕事で起きたこととか、そういうことに対して、ひとつひとつ意味を考えてしまうことがある。


例えば、朝、出勤途中で、黒猫に道路を横切られて、なんとなく先入観で「縁起が悪い」「何かよくないことが起こるかも」と思ってしまう自分がいた。そう思うのは、多分こどものころ聞かされたか、なにかの本で読んだせいだと思う。黒猫に横切られる=良くないこと、と意味づけているのは、まさしく自分で、自分で自分を嫌な気持ちにしていた。


で、まあその黒猫に横切られて、良くないことが起こったかというと、そんなことはなかった。


そして、別の朝、その道を通ると、またその黒猫に横切られた。それが、一週間のうち、3回か4回あった。もしかして、私がこの時間に通るのを、この黒猫は知ってる?黒猫の通勤時間帯とかぶってる?


こうしょっちゅう横切られると、縁起が悪いとかそういうことは、思わなくなった。むしろ、今日もあの黒猫が横切るかどうか、楽しみにすらなった。


事実に対して意味を与えているのは、自分。


それなら、できるだけポジティブな意味を与えたいものだ。


黒猫に横切られるのは、黒猫の通勤時間と私の通勤時間がかぶっているから、と。


疲れているときや体調不良のときは、なかなかポジティブになれないものだけれど、でも、そういうときは、無理に考えないようにしよう。


あとは、自分で事実に意味づけするのと同様、他の人もその人の視点で意味づけするものだから、これはどうしようもない。その人にはその人の視点、感覚、価値観があるから、よく言われるように「人は見たいように見るもの」。それを他者はどうこうできない。まあ、そういうことだ。


そんなわけで、今日はこのへんで。