50本のメールより、一度会って話す方が理解が深くなることもある。またメールは、送られてきた文章を、自分が想像するイメージを含めてとらえる傾向が強くなるので、自分の心理的ノイズが入りこみやすい。
しじゅう会っている相手とのメール交換では、さほど問題がおこらなくても、あまり会うことのない相手とのメール交換ではトラブルがおきやすい。また、会って言いにくいことをメールですませようとすることも大きなトラブルをひきおこす。
こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人 海原純子
なるほどそうだろうなと思う。ブログもそうであるがメールを読む際もどうしても読む側の主観が入ってしまう。読む側は書き手の意図したこととはまったくちがうモノをイメージしてしまうこともある。ままある。
「50本のメールより一度会ってみる」
これは同意する。会えるのならば会ったほうがいい(会う際の注意点はあるが)。会って話をしてみる。そこには想像とはちがったギャップを発見するかもしれない。が、そのギャップはまさしく自分が作り出したものとの落差であり、誰も責めることはできない。むしろ面白いとさえ私は思う。(関連記事:【雑文】オフ会。ネット上とリアルで会ったときのギャップってあったりするよね。 ―かみんぐあうとっ)
言葉を尽くして書いたところで、そこには見えない壁がある。思っていることを文章化し可視化したところで、読み手の主観(フィルター、メガネ)により自分の伝えたいことそのままには伝わらないのが現実だ。それはメールもしかりブログもしかりだ。
メールを読んだ相手に伝わっているのかどうか、あるいはメールを相手が読んだかどうかすらわからないことさえある。ネットによるコミュニケーションとは所詮そのようなものなのであり、メールは便利ではあるが、ひどく曖昧で意思伝達の方法としてはかなりリスクのあるものだとそのように思っている。
ネットは便利なツールだ。しかしながら万能ではなく、欠点も注意すべき点も多い。ネットにおけるトラブル・犯罪があとを絶たないのは周知の事実だ。それを承知のうえで使わなければならないと思う。
メールに現れるものがすべてではなく、メールによって受け取ったモノ、そこには自分の自分勝手な想像が付け加えられていることを忘れてはならない。人は会ったことがない人に対して特にイメージを膨らませがちだ。
「50本のメールより、一度会ってみる。」
会ってイメージとのギャップにがっかりするかもしれない。あるいはイメージどおりだったとそういうこともあるかもしれない。
お互いを理解することは簡単なようで難しい(理解できないと言っているのではない)。
会って話せばメールでのやりとり以上に理解しかえるかもしれない(あるいは理解しあえなくなるかもしれない)。
ネットで知り合った相手とリアルで会うことの危険性(犯罪等)も考慮すべきで(特に女性)、そのあたりは自己責任自己判断に委ねられるだろう。
こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人 (角川oneテーマ21)
- 作者: 海原純子
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2006/06
- メディア: 新書
- 購入: 1人 クリック: 55回
- この商品を含むブログ (26件) を見る