読んだ本「こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人」


第1章 勝ち組のゆううつ 負け組のいらだち
第2章 コミュニケーションが何故うまくいかないのか
第3章 ぬけがけと嫉妬の日本社会
第4章 格差時代を幸せに生きる
第5章 自分らしい人生


なかなか興味をそそられる章タイトルが並んでいる。が、読んでみて物足りず、また賛同できない部分も多かった。が、読むに値しないという意味ではない。
また、このブログにアップするのはあくまでも私が読んだ本の簡単な感想、メモ程度のもので、この本は面白い、オススメと宣伝PRするために載せるのではない。読む読まないは個人の判断だと思う。もしこの記事を読んで興味があれば図書館で借りるなりして読んでほしい。

今の社会でいうところの勝ち組は、自分の恵まれた条件で競争した選択試験の結果を謙虚に受け止め、スタートの条件に恵まれない者への共感と対話をもってほしい。負け組になっていると感じている人は、最低限の社会適応を完了したらファンタージエンに旅をし、今まだ眠っている生かしきれていない「自分の可能性」を人生に統合することである。テレビを消し、自然とふれ合い、体を動かし、樹々や花々と語り、自分の中の「ふと」に気づくのは遅すぎることがない。それを負けと言われることをおそれてはならない。その時こそめげずに「自分の味方」になってほしい。21世紀は、勝ち組と巻け組の格差社会ではなく、ファンタージエンに行ける人と行けない人、気づく人と気づかない人、自己実現へむかう人と外的条件を求めつづける人、自分との対話できる人とできない人、他人と対話できる人とできない人、という格差の時代のように思える。

第5章 自分らしい人生からざっと引用してみたが、これはまずミヒャエル・エンデの『はてしない物語』を読んでいないと理解に困る。ファンタジーエンって何?と思う人も多いだろう。童話『はてしない物語』の中に登場するファンタージエンという国に主人公の少年は行って旅するわけだが、そのファンタージエンを筆者は無意識レベルと表現していて、この無意識レベルというのがまた理解しづらい。


こういった格差社会等を扱った本を読む場合、自分がいわゆる勝ち組負け組という概念をどう定義するか、どう思っているかをできれば明らかにしておいた方がよい。というのも本の筆者には筆者の勝ち組負け組の定義づけがあり、読者は読んでいくうちにその定義づけに染まり、あるいはあたかもその定義が正しいかのような錯覚に陥ってしまうからだ。


どんなに著名な人が書いたにせよ、それを鵜呑みにするのはいかがなものかと思う。あくまでも一人の人間のものの見方であり、一人の人間の考え方それだけに心酔するのはいかがなものか。


読書はインプットするための刺激物にすぎず、読むことそれ自体はたいしたことではない。インプットしたあとの自分の中での消化こそが重要だと私は思う。消化してこそ自分の身につくのではないだろうか。


話を元にもどすと、本書の外的条件ばかりを求め、自分と対話しない人間になってしまうことをよしとしない点については同意する。自分との対話、つまりひとりになり自分と対話する時間をもっともつべきで、それはテレビを見たり、ネット画面を見ている状態ではできないことのように思う。


自分と対話するとともに、誰かと比べての幸せではない「自分にとっての幸せ」の条件を明らかにすることこそが幸福感への近道かもしれないとそのように思う。