アウトプットについて考えた

インプットではなく、アウトプットが先だという本を読んだ。どんどんアウトプットして、そして空っぽになるくらいに、自分のなかのもやもやしたものを言語化して、あるいは形にして、外に出して、すっきりすること。そうすることによって、また新たなものがすうっと入ってくる、らしい。なるほど、と思ったりもする。



本を読む場合でもニュースを見る場合でもいわゆる情報に接するとき、鵜呑みにすることだけはしないようにしている。どんな著名な有名な人が書いた本でもブログでも、それを諸手をあげて絶賛するということは滅多にない。読んだあと自分の視点、自分のフィルターを通して、考える。本当にそうだろうか。果たしてその人が言っていることは、正しいのだろうか、信じるに足りることだろうかと。一言居士的な部分があるのかもしれない。



どうでもいいことはどうでもよくて、こだわるところはこだわる自分がいる。許容ということを覚えたのは最近のような気もする。丸くなったというか。目には見えないけれど、人は日々変わっていくもので、年をとっていくことによるプラスとマイナスがあるとすれば、私はプラスの方が断然多いと思う。経験や知識、年をとって得るものは多い。若さを失い、外見が衰えていくことを人は嫌うけれど――だからこそアンチエイジング系のものがもてはやされるのだけれど――人はみな生きている以上年をとるのだから、加齢による外見の変化を恐れる必要はないように思う。むしろ、年をとって、経験を重ねて得たもの、経験によってわかったことをどんどんアウトプットしていけばいいと、そう思うようになった。私などまだまだ若いという人もいるかもしれないけれど、今の年だからわかることもあるわけで、その一時点の記録として、こうしてブログに書いて残しておきたいと思う。一時点の記録。その記録が時系列的に連なっていけば、それは歴史になる。



私の場合、今アウトプットの時期なのだと思う。本も読んでいるけれど、アウトプットもしたい。文章を書きたい。アウトプットすればするほど、もっと書きたくなる。書きたいように書いていい媒体がブログという場所で、人はもっともっと書いていいと思う。私はかなりの数のブログ、サイトをRSS登録、もしくは、はてなアンテナに登録しているが、更新がぱたりと止まったブログは、実のところ多い。ブログ熱というのだろうか、ブログ熱が冷めてしまったのだろうな、と思う。あるいは書くことがない、忙しくて書くヒマがないということだろうな、と思う。もしくは書こうと思っているけれど、どう書いていいかわからない、書きあがっていない等事情はブロガーそれぞれにあるだろう。



ブログは習慣だと思うこともある。毎朝顔を洗い歯を磨くように、毎日ブログを書く。それは、ニュースサイターが巡回し、ニュースサイトを更新するのと同じことだと思う。ただ、ブログの場合、自分でネタを準備しなければいけない。この準備こそ私は楽しい。面白い。自分の中を巡回すればいいのだから。ソースは自分だ。ネタは何でもいい。自分の言葉で書きたいこと、書けることを書けばいいのだから、気楽でいい。誰かの推薦状をうまいこと書かないといけないわけではない。肩の力を抜いて書いていい。なにも論文を書くわけではない。あれ?と思うような矛盾や前と言ってたこととちょっと違うぞ、というのはよくあることだ(と思う)。何が言いたいのかわからなくなること、オチなしで終わってしまうこともある(と思う)。要するに難しいことを考えず、書きたいように書くのがいちばんだと思う。



情報は出せば出すほど巡りめぐって与えられるもの、集まってくるもの。アウトプットもすればするほど、またアウトプットしたくなる。そんな感じでアウトプットについていろいろ考えてみたので書いてみた。