包まれるということ

年末年始はゆっくりと小説を読もうと思い、まず小川洋子の『薬指の標本』を読んだ。
読んだ本については詳しくはネタバレになるので書かないけれど、小説は私にとって特別で決して流し読みできない種類のものだ。丁寧に丁寧に読む。


薬指の標本』。ページをめくりながら考えた。考えたことを書いてみる。


お互いがお互いを必要とする世界というのは、閉鎖的だけれど、二人にとっては唯一無二の何ものにもかえがたい世界なのだろうなと。いわば、閉じた箱の中に二人でいるようなものじゃないかなと。外の喧騒も箱の中にいれば関係はなくて、二人向き合い、穏やかでいられるシアワセな世界だろうなと。現実はそうではないと思うけれど。


閉じた箱の中、二人だけの世界では存在しえないのが現実だったりする。生きていればさまざまな「しがらみ」がある。「現実にはさまざまな『しがらみ』があるのにね」と小説の世界を否定するわけではない。甘く閉じた二人だけの世界。そういう世界があってもいい。小説はフィクションなのだから。そういう世界に憧れる人は憧れるだろうし、お互い想い想われというのは理想的な、憧れる状態なのではないだろうか。


話を戻して、「包まれること」による安心感というのは確かにあるように思う。寒い夜、ぐるっと毛布に包まって、眠る。温かく気持ちいい。『薬指の標本』にも出てくるが、靴もそうだ。わたし的には足全体を包むような靴が好きだ。包まれる安心感というのだろうか。ミュールのようなすぐ脱げてしまう不安がないものが私は好きだ。



常に言葉に触れ、包まれていたいと思うのは、所謂活字中毒なのかもしれない。言葉を求め、どこかで安心感を欲しているのかもしれない。あるいは、単なる知的好奇心によるものなのかもしれない。いずれにせよ、好きな言葉に包まれるというのは至福の時間だ。小説の世界へのトリップ。トリップ。トラップ。トリップ。旅はゆっくりなほうがいい。せっかくの旅なら、どっぷりとその非日常を味わいたい。たまには非日常に包まれるのもいい。いつもとは違う空間に身を委ねるといいと思う。いつかはそれも終わるのだから。またいつもの日常がはじまるのだから。ああ、旅というのはお祭りに似ているかもしれない。祭りの終わりは少しさびしく、それでいてまだ脳内には興奮が伏在していて……。楽しかったという記憶が自分の中に静かに残り、そして沈殿していく。



言葉に包まれる。
言葉に包まれる。
なんて素敵な言葉だろう。
小説を読むことで包まれ、こうして書くことで脳内は言葉でいっぱいになる。
包まれること。
それは安心感。
狂おしく包まれることは望まない。
優しく包まれる。
今年もたくさんの言葉に包まれたい。
言葉が好きだから。
好きな言葉に包まれて、毎日丁寧に穏やかに過ごしたい。