ネットが満たすもの、ネットで得られるもの、失うもの

脳のなかの文学 (文春文庫)

脳のなかの文学 (文春文庫)

脳のなかの文学 (文春文庫)』より抜粋

ブログをはじめとする、お互いの書いたものの文脈づけを容易にするインターネット上のメディアを、人間の表現環境の新時代をもたらすものとして賞賛する人々がいる。
それでは、ブログをはじめとするインターネット上の新メディアは、果たして、古典的な価値を持つ作品を生み出しつつあるのか? むしろそこにあるのは、猥雑な剥き出しのエピソード性が満載の、終わりのないおしゃべりの空間ではないのか。

自称ブログ推奨派のわたしとしては衝撃を受けた文章だった。

 丸山健二安曇野の庭を訪ね、庭の横のテラスに横たわり、青い空を行く雲を見ていた時、わたしはつくづくと思った。自分が死ぬ時に、ああ、毎日庭で植物の手入れをして、風に吹かれ、青空を見上げ、朝露に世界全体が映し出されるのを見る、そんないい人生だったな、と思うか。それとも、毎日何十通という電子メールを読み、何十通の返事を書き、何百通のスパムをフィルターして、ウェブを何時間もサーフィンして、ブログを書き、読む、そんないい人生だったなと思うか。どちらが良いか。

脳のなかの文学 (文春文庫)』の中の、『「スカ」の現代を抱きしめて』という中の文章であるが、触発されいろいろ考えることは多い。
まず考えたことはネットが満たすもの、ネットで得られるもの、失うものというのはあるだろうということだ。


ネットが満たすもの、それは確かにあると思う。知的好奇心を満たしたり、自分が知りたいことを知ることができるというのはネットの強みだと思う。


確かに『猥雑な剥き出しのエピソード性が満載の、終わりのないおしゃべりの空間』という感じは否めない。Twitterもそうであるが、玉石混合。たいして意味のない言葉が漂う空間であったりもする。ただ、たいして意味のない言葉だとしても、発信者はいるわけで、タイムライン上で今生きている人の存在を確認できるというのは、ある意味寂しさから少し離れられる貴重な空間だったりする。真夜中でもある程度の人数をフォローしていると、誰かつぶやいているものだったりする。ああ、まだこの人も起きていたのか、と。


寂しいなと思うとき、まず欲しいのは話相手だったりする。真夜中リアルには話をする相手がいないとしても、Twitterだったら、ネットごしではあるけれど、話をすることができる。


ウサギは寂しすぎると死ぬという話を聞いたことがあるけれど、人も寂しすぎるとおそらくはおかしくなってしまうものだと思う。


ネットを使わず寂しさを紛らす方法はいくらでもある。ゲームをしたり、漫画を読んだり、本を読んだり、文章を書いたり、絵を書いたり、何かを作ったり、一人遊びの達人というのは案外多かったりする。が、真夜中、ただ一人起きていて、眠るにも眠れず、たわいない話を誰かとしたいと、そう思うことがあったりするものだと思う。



意味のあることしかやってはいけないということはないと思う。たわいないこと、どうということはない世間話、くだらない話、B級的な話をしたいこともある。それこそTwitterのタイムラインのように流れて消えてしまって全然かまわないこと、それもまた必要だと思う。


すべてを意味のあることで埋めつくさなければならないということはない。意味のないこと、車のブレーキであれば、遊びの部分みたいなものは、生きていくうえで必要なように思う。


『おわりないおしゃべりの空間』それはTwitterがまさしくそんな感じだけれど、そういった空間があるというのは一種の安心感すら覚える。
そこに行けば、誰かつぶやいている。リプライを飛ばしたらリプライを返してくれるかもしれない。


やはり人はひとりきりでは寂しいもので、自分の存在(exist)を表明したいものだと思う。


ココでバイキングレストラン式読書について書いたけれど、ネットもバイキングレストランで、少しずつ自分が好きなものを食べてそれでおなかを満たしてという仕方も有りだと思う。個人の自由だとそのように思うのだが。


専門店式の読書もよい。それはそれで十分価値はあると思う。ただ、わたしの場合そうなのであるが、これといった特定の分野をしぼれないでいる。のめりこめるような分野というのがわたしにはまだない。ゆえにネットをバイキング方式で楽しむというのはわたしに合っているのかもしれない。好きなものをちょっとずつ、つまみ食いして、それで満足的な。


本と比べればネットの歴史は格段に浅い。本一冊が出来上がるまでの過程や手間ひまもブログのそれとはかなり差がある。本には本のよさがあり、ネットにはネットのよさがある。ゆえにわたしは共存していってほしいとそう思うわけで、ネットから得られるものを否定したくはないし、誰もが発信できるこのツールをなくしたくないと思う。


誰もが発信できる。そして、発信するかしないかは当人の自由。それがよいのだと思う。


ネット中心ネット依存の生活で失われるものがあるのもまた事実で、得られるものがある反面失うものもあったりする。ネットが楽しくて、本を読まなくなった。そういう人もいると思う。Twitterにつぶやいて、それでなんとなく満足して、ブログを書かなくなった。長い文章を書くのがめんどうになった。という話も耳にする。



得られるものと失うものは表裏一体で切り離せないのかもしれない。ネットで大量の時間を使い、他のことがおろそかになるという話も聞く。彼氏があまりにもネトゲ中毒でゲームばかりしていて、結局別れてしまったという人も以前の職場にいた。


結局のところ、自己責任的なものはあると思う。ネットをするしないは自分の意思によるものだし、もしかしたら自制が必要なときもあるかもしれない。ネット中毒だと自認しつつ、ネットし続けたとして、仮にネットだけして人生が終わってしまったとして、それで後悔しないかどうか。


人生は有限。時間には限りがある。
案外人は自分の残り時間というのには無頓着だったりする。
あと何十年かは生きられるだろうと。
誰もあと何十年も生きられるとは保証できなかったりするのに。


ネットに対するスタンスは人それぞれちがうと思う。また人それぞれちがっていていいと思う。


深く考えずにとにかく楽しむというスタンスでもいいと思う。深く考えたところで答えが出るわけでもなかったりするし、むしろ楽しむスタンスで取り組むほうがうまくいったりもする。肩の力をぬくという感じで。


ただ、ネットがすべてではなく、万能のツールではないというのは前々から言っていることで、昔からのメディアである本という存在を切り捨てるのはどうかとそのように思う。本から得られるものもある。ネットでは得られないものが得られる。


どうしてネットばかりして本を読まないのだ、と責めるつもりはない。本には本のよさがある。読んでみたら案外面白かったり、本を読むことでネットとはちがう知らない世界を知ることができるよ、というのは言いたい。


これからも自分のブログで読んだ本の中で気になった文章は紹介していきたいし、同様に考えたことも書いていきたいと思う。