自分の感覚を大事にすること。信じるということ。

人それぞれ感覚はちがうもの。
自分には自分の感覚があって、それを大事にしたい、自分の感覚を信じたいとそう思う。


例えば好きな音楽。
これはもう誰がなんと言おうと好きなものは好きとしか言えない。
私の感覚にぴったりと合って、離れようと思っても離れらない。
そういうものではないだろうか。


見るもの聞くもの触るもの食べるもの、すべて感じるのは自分だ。
他の人がよいと思ったものが、必ずしも自分にとってもよいもの心地よいものだとは限らない。


月を見てきれいだと思うその感覚を大事にしたいし、そういう感覚を鈍らせたくないと思う。


疲れていると感覚が鈍くなるというのはある。
何をしても面白くないし、楽しくない。
笑えないし、きれいだとかそういうのも感じなくなる。
疲れすぎて、怒りも感じなければ、悲しいという感じることすらなくなってしまう。
あるいは、そういう鈍い状態に自分がなっていることすらわからなくなってしまうことも。


それは怖いことで、できるだけ回避したいことだ。


観察力という言葉があるけれど、観察力あるいは洞察力というものがあって、「表現は成功する」というのはあるように思う。


鋭い指摘をする人、表現に長ける人は、鋭い観察力、洞察力の持ち主でもあるように思う。


鈍い感性鈍い感覚でどれほどのことが表現できるのかと自分を叱咤したくもなるし、自分の感覚を信じないでどうするのか、他者の感覚を借りて、借り物の感覚でそれで自分は満足するのかと、自分の言葉で語っているのか、どこかで見た誰かの言葉を借りてきているだけではないのか自分自身に問いただす必要性を感じるときがある。


自分の感覚を大事にするということ。信じるということ。
まずはそこからだと思う。


「自分らしく書くこと」「自分の感覚を信じて書くこと」で満たされるというのはあるのではないだろうか。