ブログ。話をするより書くほうが好き。

人と会って話をするととても勉強になります。
先日もここで登場のAさんと話をして、私の知らないことをあれこれ聞かせていただいて、私のイマジネーションは広がりました。
そういう刺激を与えてくれる人を私はとても尊敬します。私が知らない世界について語る人、語れる人。ええ、熱く語る人が実は好きだったりします。話を聞くのは好きです。
翻って、私はその人に同じように話をできているか、と考えてしまいます。
与えてもらうばかりで、私は何もあげていないのではないか、と。
ブログ論やTwitter論やネットについて話をしても、その人に興味関心がなければ意味がありませんし、私が一体どういうことが話ができるかと考えると、ちょっと考えてしまいます。


ギブアンドテイクというのかな。
もらうばかりではなく、あげたい、そう思うのです。


Aさんから興味深い話を聞かせてもらうばかりで、私はこれといって話をできず、苦しく思ったり。
Aさんに社会の不安のことや教育の重要性について話をしようとしたのですが、うまく言葉にできなくて、なんていうのかな、話すよりも書くほうが楽なので、ブログを読んでもらったほうがいいのかな、と思ったり。


社会の不安というのかな、今の時代ってすごく大変な時代で、でもですね、今まで大変じゃない時代ってあったのかな、と思うのです。いつの時代も大変なことはあった。もっと必死にならないと生き残れない時代もあった。あるいは、当時みんな無我夢中でなりふりかまっていられなかったんじゃないかな、と。ふりかえって、あの時代は大変だったなぁ、よく生きてこれたなぁと、そんな感じじゃないかと。
最近思うのは、やはりある程度タフで、ちょっとおちゃらけていないと生きづらいかもしれないな、と。真面目なだけでは苦しくなってしまう。うまく息抜きができて、人との関係も肩の力を抜いていられる人。それでいて継続できる力があって、周囲を気にしすぎない人、自分のやりたいこと、やるべきことがわかっている人がイキイキと輝いているような、そんな気がします。
不安は不安だけれど、それだけに焦点を合わせていたらやっていられないというのもあると思います。不安は感じるけれど、そんなに不安だけ感じてたって前には進めないし、泥だらけになりながらも、身も心も折れそうになりながらも、歩いていかなきゃいけないし、みたいな。歩いていればどっかにたどりつくさ、みたいな。明確なゴール、明確な幸せというのを設定しにくくなっている時代にもなっていると思います。幸せなんて人それぞれちがうし、感じ方ひとつでどうとでも変わってしまう。曖昧です。曖昧ゆえに不安。どうしたら幸せになれるか、幸せって一体何なのか、ググったところで見つからなくて、ググるだけでは幸せにはなれない。はてさてどうしましょう?どうしたらいいんですか?みたいな。


ネットに限らず、テレビでも本でもどんなメディアでもそうですけれど、不安な情報だけに気をとられて、振り回される必要はないと思います。いろんな情報を自分に照らし合わせて、比較したりして自分を不幸にすることはないって思っています。情報ってやはり発信者の主観やスタンスが入っています。発信者によってはものすごくネガティブな表現で発信したり、かと思えば、別の発信者によってはネタにして笑っていたり。調査とかアンケートとかも、どこまで信じていいのかわからないです。情報操作してできがったものだという可能性もあるのですよね。数値も鵜呑みにしない方がいいです。情報は情報で受け取って、あとは、自分がどう思うか、どう考えるかなんだと思います。こういう情報があるけれど、この人はこう言っているけれど、実際はどうなんだろう、と。


案外ですね、私は楽観的なのか、一般的に、まだネットができて、あちこち自由に見れて、自由に発信できるそういう余裕があるうちは大丈夫なんじゃないかとそう思うのです。むしろ、ネットもできず、パソコンを触ることもなければ、食べるものすらなく、今日の食べ物をどうしよう、明日の食べ物はどうしよう、とそういう状態にいる人もこの地球上にはいるわけで・・・・・・。日本では、はてなでは、今日はほってんとりで、Twitterのドラマのことが話題になっていますけれど、まぁ平和だなぁと。


これもいつか記事を書こうと思っていたのですが、教育は大事。そう思います。
勉強をしたい人は勉強することができるそういう社会であってほしいと思います。
お金がないから勉強できない、高校に行けないというのは悲しいですね。
子どもは親を選べません。親にお金がないから高校は行けない。勉強したいけど勉強できないという事態はよくないと思います。
親もいつまでも生きているわけではないですし、子どもはいずれは自分の足で歩いていかないといけない。いえ、歩いていくものだと思います。子どもには子どもの人生があります。子どもは子どもで自分の生活を楽しんでほしいと思います。そのためには生きる力をつける必要がある。他の言い方で稼ぐ力と言う人もいるかもしれません。私は子どもに生きる力を身につけさせるのが親の役目だとそう思います。
ひとりでもなんとか食べていける力。他の人とも協力してやっていける力。自分ひとりで生きていけると思うのは間違っていて、やはりひとりじゃ生きていけない、まわりの人がいて、見えないところにも多くの、本当に多くの人がいて、そして生きていけるのだと。生きる力をつけるために、必要なのはやはり勉強することであり、今の日本、現代の社会で生きていくために勉強は必要。誰かのためではなく、自分のために勉強。自分がやりたい勉強を勉強できること。数学が好きであれば、数学を、英語が勉強したければ英語を。歴史が好きであれば歴史を。コンピュータが好きならコンピュータの勉強を。絵が好きなら絵の勉強を。音楽が好きなら音楽の勉強を。そういった意味で勉強したいのに勉強できないというのは悲しいことで、やはり子どもが勉強できる社会であってほしいな、と。働くことも大事ですが、勉強も大事。高校というのは3年間です。その3年間に得られるものは大きいです。勉強だけではなく、部活動や友達や得るもの、経験することは大きいと思います。経済的に困窮しているから、お金がないからという理由で高校にいけないというのは、やはり悲しいですね。



さきほど、感情である悲しいという表現をしましたが、他にどう表現していいかわかりませんでした。ただ悲しいとしか言いようがなく、その悲しいという感情を忘れたくない、消してしまいたくないという思いがあるからかもしれません。
感情があるのが人間。どうしても涙が出てくるときあります。それはどうしようもないのですよね。
ときに人は感情を爆発、暴走させることもありますが、それも人間だから。
感情を暴発、暴走することで、問題が解決するとは思っていません。
過去、感情を暴発させて失敗してきました。
もう暴発することはないと思います。
失敗して学びました。
学んで今の自分がいます。
失敗もするけれど、学ぶこともある。学んで成長することもある。失敗が肥料となることもある。
わたし自身、成長しているかどうかといえば少しは成長していると思います。ええ、少しは。
人は成長するもの。何歳になっても成長するものだと思います。
精神的に成長していくことで楽になっていくというのはあります。
自由になっていくというか。
小さな瑣末なことに振り回されなくなるというか。
もっと大事なことがあると思うのですね。もっと大事なこと。やるべきこと。
いつでもどこでも勉強はできるし、学ぶことはできる。
ひとつうまくいかなかったからって、それで終わりじゃない。
他にもある。可能性はある。時間はある。まだまだ終わりじゃない。
世界にはもっと見るべきものがあると思うのですね。
見るべきものがあって読むべきものがあって、知りたいと思うことは知り尽くせないほどあって。


結局のところ、自分ができることはわずかで、自分ができることをきちんとするしかないのかな、って思います。
自分ができることを着実に。
それが自分のために誰かのためになる。それはうれしいことです。
自分のために。
誰かのために。


人と会って話をするととても勉強になります。
が、正直言って、私は話すことはあまり得意ではありません。
ネットをあまりしない人にネットの話をするのもどうかと思いますし。
話すことは得意ではないけれど、書くことなら、書くのであればいくらでも書けます。
話をするより書くほうが好き。
だから書いてどんどん発信したいと思います。
もらうばかりではなく、あげたい。
タイトルやRSSで、面白そうだなーと思ったら読んでいただければと思います。
読むほどもないと思ったら、スルーで。
それも自由なのがブログのいいところです。
ブログは読みたい人が読むそんな自由なところが好きなのです。