子どもに必要なのは居場所。いっしょにいてくれる誰か。

ファミリーツリー』小川糸著・ポプラ社

読了。
ネタバレはなしということで、本を読んで思ったこと

子どもに必要なのは居場所。いっしょにいてくれる誰か。

ということで書いていきます。


この本を読む前からずっと子どもにはやはり居場所が必要だというのを強く思っていて、そして、その居場所にはやはり誰かがいてほしい。この小説ファミリーツリーの中の菊さんやスバルおじさんのような存在は子どもにとってありがたい存在だと思う。


現在、日本や世界がたいへんなことになっていて、その負担は各個人にものしかかってきて、キリキリしている大人が増えてきているように思う。子どもたちもそれを感じ取っているんじゃないかな。
キリキリして余裕のない大人が増えてきて、その余裕のなさは経済的余裕だけじゃなくて、精神的な余裕という意味も含めて。
精神的余裕は成熟度にも関係してくるのだけれど、成熟するにつれ、落ち着いてくる、ちょっとやそっとでは揺らがなくなってくるというのはあるように思う。
揺れ動く大人たちを見て子どもが不安にならないわけはないと思う。政治にしろ経済にしろ、いろんな大人が口から唾を飛ばして慌てまくって焦りまくっているのをテレビなどで見た子どもたちはこう思っているんじゃないだろうか。
一体これからこの国はどうなっちゃうんだろう?と。


私としては、もっと落ち着こうよ、と思う。
いや、もしかしたらそんなこと言っていられない状態なのかもしれない。
けれど、今までもたいへんな時代はあってなんとか切り抜けてきたのだから、今回もなんとか切り抜けられるそれだけの知恵はあるはずだとそのように思う。人間は人類は少しずつ賢くなってきているわけじゃないの?と思ってしまう。
なんとかしようよ。
凛とした日本はどこに行ったの?
日本の底力を見せてよ。
まだまだ大丈夫。世の中そんなに捨てたものでもないし、がんばってる人はがんばってる。*1
そう思うんだけどなぁ。


ふと、親が不在がちで夜も休日も家の中には子どもだけというのはどんなものなのかな、と思ったり。
共働きで夜遅くまで働いて晩ごはんも子どもだけで食べるというのも案外珍しくなかったりするんじゃないかな、と。あるいいは子どもは塾で晩ごはんは別だったり。学童で晩ごはんをという話も聞いたことがあるけれど、いややっぱりうちに帰って家族でごはんでしょ、って思う。家族でごはんすら食べなくなったら、つながりってどんどん薄くなっちゃうんじゃないかな。家族だという意識が希薄になっていくというか。孤食の時代という言葉も聞きますけれど、それを促進させちゃいけないと思うけで、子どもにとって居場所は必要。そして、そこに人がいてというのはやはり安心感があると思うのですよね。安心感。ひとりじゃないという安心感。


そんなこと言ったって、いつもいっしょ誰かといないといけないなんて無理。
という声も聞こえてきそうですが、そうなんですよね。たまには一人になることも必要。でもご飯を食べるときは誰かと家族と食べようよって思うのです。過保護とはちょっとちがうのですが、子どもには安心して素の自分が出せる場所があって、話をする相手がいて、という環境が必要。大事。それがベースにあって子どもは精神的にも安定するし、勉強にも運動にも遊びにも集中できるんじゃないかな、と。
親が不安定だと子どもも不安定になるもの。
親が怒りっぽいと子どもも怒りっぽかったりというのはありますね。
子どもは親の鏡みたいなところがあって、本をよく読む親だと子どもも自然と本をよく読むようになるというのはあるような気がします。


ともあれ、

子どものうちはご飯を食べるときくらいは誰かと家族と食べようよ

というのは思いますね。

子どもに必要なのは居場所。いっしょにいてくれる誰か。

そういうことを考えつつ読んだ本でした。

ファミリーツリー

ファミリーツリー

*1:がんばっていない人がいるからダメなんだというツッコミもありそうですが、がんばっていない人のせいにするだけでは状況は改善しないと思うのですよね。その人なりにがんばっているかもしれないし、そもそもがんばるとはどういうことなのかという定義も難しかったりしますし