書くことと恥ずかしさとあきらめと。

しばらくブログを書けなくなっていて、
いわゆるスランプに陥っていて、
Twitterは続けていて、
このままブログは放置でもいいかなと思っていた。


それでも、
何か書こうと思えば書けるかもしれないと思って、
二日連続で書いたけれど、
がんばって書いたけれど、
正直しんどい感じだ。


以前のようにいきおいよく書けなくなっている。
読み手の目を意識しすぎているからかもしれない。


読んでもらいたいという気持ちと
読んでもらうのは恥ずかしいという気持ちが交じり合っている。


大勢の人に読まれることに慣れていないというのもある。
どういう反応があるかわからないこわさというのもある。


無理やりがんばって書いたものは、
やはり読んだ人に見抜かれてしまう。
見抜かれて、ああ・・・と脱力しているのが今の自分だ。


「未熟な自分」が書いたものに反映されていて恥ずかしい。
見抜く人は見抜いている。
それはそれとして受け止めないといけないのだろうなと思う。


気楽に書けばいい
ブログを書く敷居を高くしない
そう言い続けてきたけれど、
なかなかそういう気楽な気分になれなくなっている。


いったんいろいろなものをあきらめてしまえば、
楽になるのかな、とも思う。
書いたものを読んでもらいたいという気持ちも
あきらめてしまえば楽になるのかな、と。


表現し発信することで返ってくるものはゼロではない。
必ず何かが返ってくる。
自分にとってプラスになるものもあれば
自分にとってマイナスに感じられるものもある。


何も発信しなければ、返ってくるものはもちろんない。
ロムっているほうが、気楽でいいかなとも思う。


あきらめること。
それは悪いことばかりは意味しないと思う。


『あきらめたらそこで試合終了だよ』
確かにそれはそうだと思う。
が、終了させることで、
「新たに試合をはじめられる」というのもあるのではないだろうか。


あるいは
試合だと思うからつらくなるのであって、
勝ち負けや勝敗にこだわらなければ
もっと楽になるのかもしれない。


少し落ち着いた方がいいのかもしれない。
自分の軸が揺れている状態ではよいものは書けないように思う。