孤独の捉え方

人と人のつながり方が変わっている。これからますます孤独を感じやすくなっていくのかもしれない。

というタイトルにしようと思いましたが、長いのでやめました。

これからますます孤独を感じやすくなっていくのかもしれない。

というのはあくまでもわたしの主観です。一個人の。
なので、そうは思わないという人もいると思います。それはそれでよいと思います。


昭和三十年代頃までは今のようにホテルやレストランが一般化していませんでしたから、親やきょうだい、親戚、友人・知人がお互いに泊まりあっていました。下宿人の家族や友達も泊まりましたし、近所の子供たちも泊まったものです。
 そのためには仕舞ってある布団を出して、干したり、風呂を沸かしたり、食事も用意しなければなりません。家が狭かったりすれば、いつも家族が使っている部屋を空けて掃除しなければなりません。
(中略)
でも大変なことばかりではありません。気が張る客以外は人が泊まれば楽しいし、人と人とのつながりが緊密になります。一宿一飯といいますが、泊まって一緒に食事をするということは何より人と人を近づけることです。泊まることで他人を深く知ることもできます。

昭和の家事 (らんぷの本) より

誰かのうちに泊まるというような、こういった人と人を近づける機会は現代では少なくなってきているように思います。
いや、そんなことないよ、しょっちゅう親や友達が泊まりに来ているよという人もいるでしょう。が、それが親戚、知人となるとどうでしょうか。よほどの事情がないかぎり自分のうちではなくホテルに泊まってもらおうと思うのではないでしょうか。


人と人のつながりというのは、自分から求めていかないとやはりだんだん疎遠になっていくものだと思います。飲み会に誘われても断り続ければ、そのうち誰も誘わなくなります。

どうして僕にはオフ会の誘いがかからないんだろう。もしかしてハブられてる?ぼっちクラスタってやつ?

みたいなつぶやきをTwitterで見たことがありますが、誘いを待っているだけではダメなんだと思います。オフ会に参加したいのであれば、自分から誘ってみるくらいでないと。


人との関係もいいときばかりではないです。つきあっていくうちにさまざまな面が見えてくる。そういうやつだったのか、と。どうもなぁ・・・。なんか合わないなぁ、と。
その場合、おそらく多くの人は距離を遠くすることを選択するのだと思います。まぁ、無理に合わせる必要はないというのも言えます。


そうして、無理に合わせることはないと、人との距離感を保っていくうちに、ふと自分の周りに気軽に話せる友人と呼べる人がいなくなったことに気づいたと言っていた人がいました。その人は無意識のうちにバリアを張ってしまっていたのかもしれません。自分を守るために、自分の世界を大事にしたくて、誰にも邪魔されたくなくて、自分の世界に没頭したくて。
あるいは、そういうつもりはなくても、勉強に熱中していたり、趣味に没頭していたり、仕事中毒になっていて、気がつくと「独り」になっていたという場合もあると思うのですよね。気がつくと、本音を言えるような相手が周りに一人もいなくなっていたというような。―そして寂しさに打ちのめされる―自分で防御壁を築き、自分で自分を孤独に。



もっとも、自分の世界に没頭した結果すばらしい作品が生まれたりというのもあります。小説を書くこともそうですし、漫画や絵を描くこと、クリエイティブな作業は特に一人で集中してやらなければできないということあります。


とはいえ、やはり人はつながりを求めるものなのだと思います。一人きりは寂しい。同じ趣味の仲間がほしい。同じ趣味の仲間が集まって楽しい時間をすごすこと。それは最近はオフ会という名前でさかんに行われているように思います。ネットが介してくるというのは、昭和30年代にはなかったことで、
これもつながり方の変化のひとつだと言えると思います。
携帯電話も普及していますし、人と人のつながりにネットが介してくるというのは、これからもますます増えてくると思います。


また一方で、住んでいる場所の関係でそういったオフ会に参加したくても参加できないという場合もあります。人とつながりたくてもつながれない。それが孤独の引き金となることはありうることだと思います。


人が生きていくうえで、孤独とか寂しさとか感じないで生きていければそのほうがいいのかもしれませんが、孤独も寂しさもまったく感じないという人は本当にごく稀だと思います。


孤独は悲しくはなく
孤独はきれいで力強い
孤独は私たちを守ってくれる
孤独は私たちを目標へ向かわせてくれる

『薔薇色の孤独』 詩集 風は君に属するか (角川文庫) より

孤独の捉え方を変えればまた気持ち的にも変わってくるというのはあるかもしれません。


うわべだけの軽いつきあいに翻弄され、他人に振り回されるくらいなら一人でいたほうがいい。そのほうが精神的に楽だ。一人で好きなことをやる方がよっぽどいい。そう考える人もいると思います。

人と人のつながり方が変わっている。これからますます孤独を感じやすくなっていくのかもしれない。

そう思うことで、少しは救われるような、そんな気もするのです。孤独を感じやすくなっているそういう時代なんだ、と。


孤独はネガティブなイメージを持たれていますが、誰でも孤独や寂しいというのは感じることがあるもの。それを嫌悪し、毛嫌いするのではなく、認めてしまう。そうすることで肝が据わるというのはあるかもしれません。
孤独はクリエイティブなことや自分の好きなことをする絶好の機会とも言えると思うのです。

自分ひとりでできることをやってみる。
ひとりだからこそやれることをやる。

そんな感じでしょうか。


もはや
できあいの思想には倚(よ)りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚(よ)りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚(よ)りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚(よ)りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
自分の耳目
自分の二本足のみで立って
なに不都合のことやある


倚(よ)りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
『倚りかからず』茨木のり子の家より


一生懸命何かに打ちこんでいる人には応援する人がでてきます。
これは本当だと思います。

昭和の家事 (らんぷの本)

昭和の家事 (らんぷの本)

詩集 風は君に属するか (角川文庫)

詩集 風は君に属するか (角川文庫)

茨木のり子の家

茨木のり子の家