「自分ができること、できないこと」

まぁココで書いた強みとか武器との関係もあるけれど、自分ができること、できないことというのはわかっておいたほうのいいかな、と。自覚しておいたほうかいいというか。


今日、思いついた言葉は

分相応。
足るを知る。

でも自分自身現状で満足しているかというと、そういうことはなくて、「まだまだだ」と思う。「まだまだだ」と思うからがんばれるというか。


足りないものがわかっていて、それを欲しがったりするものなのかもしれないけれど、でも、ないならないでもまぁ別にいいんじゃないかと思ったり。


わたしに時々あるのが「あー、これはできないというか無理」というのがわかっていてもそれを表に出したくないというのがあって、まぁこれは一種の見栄みたいなものかもしれない。もちろんいきなり「42.195km走れ」と言われても走れないわけですが、「短編でいいから何か書いてみませんか?」と言われると、いくら仕事が忙しくても書いてみようと思ってしまう。(忙しくて「できない」「書けない」と言いたくないというのがある)


「よし、短編で、ひとつグッとくるやつを書いてやろう」と拳(こぶし)を握ってしまう自分がいる。


ただ、ここで問題になるのは「グッとくるやつを書こう」と力むと、かえって失敗するということ。空振りしてしまうというか。


ブログを書く場合もそうなのですけれど。自分がどれくらいのものを書けるか自分でわかっておいたほうがいいんじゃないかな、と。思わぬ良いものが書けてしまう可能性もないわけではないです。が、可能性だけに賭けるのはリスキーかな、と。安請け合いして頭を抱えることになったり。


経験的にあるのは、なんとなくいきおいでサササっと書いたものの方がウケたりするということ。長文がウケるとは限らなくて、だいたい長文を書いた場合最後まで読まれているかどうかも怪しかったり。


自分が書こうとするもののイメージが膨らみすぎて、実際のところ自分の力量では書けなくて、それでもなんとか形にするのですけれどね。なんとも自己満足のカタマリみたいなお粗末なモノだとあとから気づいて愕然としたり。


承認欲求というのかな、書いたものにそれが見え隠れしているのを自分で感じて、うんざりすることもあるし―うんざりというか嫌になってくるというか―物を書いたりするのは、褒められたい、認められたいその一心だけなの?みたいな、承認欲求が満たされることなしに何かをするってことはないの?みたいな。


「認められたい」と頑張り続けた場合、頑張って「認められた」という達成感が得られた瞬間にもうそれでいいと思ってしまうのか。ゴールしたと思ってしまうのか。そもそも誰にどういう人に認められたいのか。たとえ認められなくても、誰かに否定されたとしてもそれでも書き続けたり何かをし続けたりするのか。


書くことに関して言えば、「根っからの書き人間」というのは、認められようと認められまいと放っておいても書くのですよね。例えば、なんらかの理由でブログを閉鎖したとしても、そのうち戻ってくる。別のブログで、別のHNでまた書き始めるケースあります。


つまり、その人は「文章を書ける人」で、できることをしないでいるというのはむしろ苦痛で、自分ができることをあえて故意にしないでいるというのは不自然でストレスになることなんじゃないかな、と。逆にできないことを無理やりやるというのもストレスになるわけですけれども。


ある程度年をとってくると、できないことや苦手なことがわかってきて、それに時間をかけるのがもったいないと思うようになるのですよね。どうしても整理整頓ができないとか、どうしても英語は苦手とかわからないとか。できないこと苦手なことに費やす時間、労力がもったいないと思ってしまう。文章を書くのも同じで、あるいは絵を描くのも同じで、書けないものは書けない。描くのが苦痛。嫌。したくない。別に書けなくても死なないし、絵は描けなくてもなんとかなってるし、英語ができなくても支障はこれといってないし、と諦められる。諦めることで他に時間や労力を回せるのでいいかもしれないな、と。


「自分ができること、できないこと」がはっきりわかってきて、できないことに執着しなくなると楽になるというのはあるかな、と。まぁ自分ができることを着実に強みにしていく方が選択としては賢い選択なのかもしれないな、と。


まぁ賢い選択がいつもできるとは限らなくて、できないと頭ではわかっていてもなお「できないことができるようになりたい」という「欲」みたいなものもあるわけで、それについては、またあらためて書こうと思います。