いつだってどこにだって孤独は存在する

「1日おきにブログを書く」という目標みたいなもの(2013年にやりたいこと「一日おきにブログを書く」)を書いてしまったので、とりあえず書いてみることにする。

1.ゴールのない世界

ゴールを設定してないとなかなか続かないというのはある。
語学の勉強もだけど、ブログも。1日おきにブログを更新するというのは目標であってゴールではない。


今日は孤独について考えることがあって、そのとき考えたのは

都会で感じる孤独と田舎で感じる孤独はちがうものだということ。

それについてうまく説明しようとしたけれどうまく書けそうになくて放置している。
昔は今住んでいるところよりもっと田舎に住んでいて、なんというか寂しくて「ここにいるのはツライ」「ここは自分には合わない」って思った瞬間があって、結局引っ越すことに。


ブログも同様に書いていて「寂しいなぁ」と孤独にも似たものを感じるときがある。高い壁に囲まれた井戸の中でひたすらひとりで泳いでいるようなそんな感じだ。


本の執筆のほうがゴールが明確で楽かもしれない。(何万字も書くのは大変なことだけれど、でも完成形が頭の中でできているので書くのは楽だった)


ブログにはゴールなんてない。
ゴールのない世界で、今いる場所でひとり泳ぎ続けるしかない。


まぁ泳ぐのをやめたとしても、誰からも責められないし、むしろ時間ができてよいのかもしれない。他にやりたいことをやることができて、開放感を感じて・・・。でも、私の場合そのうちなんとなく物足りなくて、「ああ、何日ブログ書いてないんだっけ?」とふと自分のブログをのぞいてみたりするのだ。


ゴールがないものにも何かゴール的なもの、達成感を味わえるものがほしいのかもしれない。長く続けていくつもりではあるけれど、ひとり泳ぎ続けるのはやっぱり寂しい。

2.誰かに見ていてほしい

毎日を丁寧にすごすこと。日々考えたこと感じたことの備忘録的なものでもいいので書いて残すこと。書いて更新すればきっと誰か読んでくれる。そう信じて。


ひとり泳ぐ自分を誰かに見てほしい。そう、つまりは「見てほしい」のだと思う。


寂しさは、孤独はいつだってどこだってすぐそこに潜んでる。
都会にいたって田舎にいたって。ブログを書いていたって。
誰かとつながろうと思えば思うほど寂しくなる。

ネットにアクセスしても、ネットを通して誰かにつながりを求めなければ、別に孤独感とかは感じないのだと。
ブログを書く側、あるいはtwitterユーザになって、誰かに読まれたい、誰かと会話したいと思った瞬間、つまり、つながりを求めた瞬間、その人は孤独も感じることになるのだと思う。
ネットを介して、ネットの向こう側の人となんらかの係わり合いを持ちたいとそう思い始めたとたん、人は変わるのだと思う。


つまり、つながり感と孤独感は裏表なのだと思う。


【雑文】ネットにおけるつながり感とか孤独感とか(かみんぐあうとっ) より
http://d.hatena.ne.jp/komoko-i/20080423/p1

ブログを始めてまもなくの2008年わたしはこんなことを書いていた。
さらにこれに関して言えば、都会にいても田舎にいても誰かとつながりたい親しくなりたいもっと自分の存在を認めてほしい、そういった思いが叶えられないことで寂しさや孤独を感じてしまうものなのしれない。

3.いつだってどこにだって孤独は存在する

ブログの場合、更新しないこと、やめてしまうこと、それは簡単。簡単なこと。
続けることのほうがずっと難しい。
難しいからそちらを選ぶのかもしれない。
難しいからこそやりがいがある。面白い。楽しい。そう自分に言い聞かせて。


はじけるように言葉を吐き出すことはもうできなくなってしまった。
どうしても深く考えてしまう。
以前より深く考えるようになった自分もまた自分で、その自分に言葉を紡がせたいと思う。


わたしには若い人のような熱く激しい炎のような輝きはなく、魅了するような言葉の巧さもなく、自分の地味さ、言葉の拙さを呪いつつ、それでも書くしかないな、と。
孤独感、疎外感それらに飲みこまれないように必死で自分の軸を作り、文章を書き続けてきた、そんな気がする。書くことで自分を救っていたのかもしれない。


いつだってどこにだって孤独は存在する。
自分という軸を作り上げたとしてもやっぱり寂しさはそこにある。
泣いても嘆いてもあるものはある。あるものは受け入れて前を向いていくしかないかな、と。