ネット―人の心の中にあるものが可視化される世界

ネットの世界は人間の心の中みたいだなと思う。理知的で高尚で美しいものから、醜く低俗でドロドロしたものまで。その中で何にアクセスして、何を見ないか。たとえ視界に入ってきても、拒絶する意志の力、知ろうとしない意志の力、それが思ったよりも貴重になると思う。精神的な強さ、弱さを試される機会は増えている。(銀色夏生/『私だったらこう考える (幻冬舎文庫)』より)

確かにそうだなあと。
ネットの世界で見ているものは、結局自分が興味関心があることが目についていることが大部分で、たいして興味がないことはそこにあったとしても気づかないことが多い。
私の場合、今はやたらと語学に関するものが目について仕方ないし、それは現在の自分の状況なのだと思う。
就活や転職、恋愛や結婚に関心があれば自然とそれらが目に付くのだろうし、ネットにおける炎上や揉め事に関心がある人はやっぱりそれらを見つけるのも早いのだと思う。


一方で興味関心があること、好きなことだけに触れていられるわけではないのが現実だと思う。思ってもいなかったところで、わたしが苦手とするタイプの人―誰かを(何かを)批判して、自分はこう思うと意見を展開し、頑としてそれ以外の意見を聞こうとしない人―に先日遭遇してしまい、ああこれはブログのネタになるなぁ、ブログに書きたい案件だな、と・・・。


具体的には「主婦は家事が大変だ、子育てが大変だというけれど、夫が外で働くストレス、プレッシャーに比べれば家事や子育てはたいしたことではない。小さなことだ。昼間家にいて、家事の合間に昼寝なんて、lazy、怠惰だ」と言う人がいて、まぁこれはかなり端折って書いているのだけれど、これはその人の本音で常日頃思っていることなのだと思う。普段はその心のうちを明かさないけれど、ネットだったら明かしやすくなるというのはあるかもしれない。*1


そして前述の「主婦は家事が大変だ、子育てが大変だというけれど、夫が外で働くストレス、プレッシャーに比べれば家事や子育てはたいしたことではない。」と言う人を変えることは難しいと思う。その人はこれまで生きてきてそういう考えに行き着いたのだと思うし、「昼間家にいて、家事の合間に昼寝なんて、lazy、怠惰だ」という主張は譲れないものなのだと思うわけで、実際そういう主張をする人は世の中にはもっといると思う。それについて同意してもいいし反論してもいい。スルーしてもいい。どれを選んでも良いのがネットで、選ぶのは自分。うまく選べるようになりたいけれど、なかなかそうはいかなくて振り回されているような気もする。



人の心の中にあるものが美しいものだけとは限らない。醜いものドロドロしたもの、苦しくつらくなるものもあるのが人の心の中。


誰かの心の中にあるものが可視化され、それが鋭利なナイフとなって突き刺さることも絶対にないとは言えないのがネットなのかもしれない。


自分を精神的に追い込むようなもの、心が折れそうになるものに出会ってしまった場合、その時どうするか。自分を守れるか、誰か相談できる人はいるか、どうにかする術を持っているか。今一度考えてみたい問題。


ネットは人の心の中にあるものが可視化される世界―楽しくて役立つことも多いけれど、それだけじゃない「諸刃の剣」がネットなのかも。



読んだ本です。

私だったらこう考える (幻冬舎文庫)

私だったらこう考える (幻冬舎文庫)

*1:かくいうわたしも人前で話すよりもこうして書くほうが楽だ。話すよりも書くほうが好きだ。書くほうが自分を表現しやすい。