文章と個性と理解と。

本を読んだりブログを読んだり、いろんな人の文章を読んで思うのは、個性があらわれている文章のほうが断然面白くて惹かれるということ。個性が際立っている文章を書くブロガーさんを数名思い浮かべたけれど、めちゃくちゃ文章が上手とか、完璧で非の打ち所がないとかそういう文章ではないように思う。


個人のブログを読んでいて、「んんん?」と思う文章に出会うことがある。よく意味がわからないというか、たぶんこういうことが書きたいんだろうなぁというのはわかるけれど、文章としてはちょっと変だったり。
でも、そのちょっと変なのもその人の個性があらわれていて、きちんと完璧に仕上げていないところが、とても好感が持てる。書いて伝えたいというその気持ちの強さ、行動力に敬意を表したい。



思ったこと、感じたことをそのまま書く。これが一番だと思う。かっこいいことを書きたいとか読んだ人を唸らせるようなことが書きたいとか思っていても、なかなかそういう文章は書けないもの。書けないものは書けない。開き直ってしまうと良いと思う。書けないなら書けるものを書くだけ。拙くても、多少変でも、書いてみることだと思う。読む人はその人の感覚でその文章を読む。受け取り方も人それぞれちがう。完璧に想定通りに読まれるのは稀だ。言いたいことがきちんと伝わらなくて「ああああ」と思うこともあるけれど、それはそれでしょうがない。50%くらいわかってくれればそれでいいかな、と。わかってほしい、理解してほしい、と声高に叫んだところで、じゃあ自分は他の人のことをどれだけ理解しているの?どれだけその人のことがわかっているの?と。


100%わからなくてもいい。わからないところがあるから、そこがいいのだと思う。わからないところ、知らないところ、ミステリアスな部分があるから、惹きつけられ、その人をもっと知りたい、もっといろんな面を見たい、とそうなるのではないだろうか。個性は多面体で、その人の個性というのはひと言では言い表せないものだと思う。


文章に個性なんてそんなに出せないと言う人もいるかもしれないけど、その出せないのもひとつの個性だと思う。これといって特徴がないというのも個性で、「これといって特徴がないほうが生きやすい」というのは、この日本ではあるように思う。個性が強すぎて目立ってしまって、それで苦労する場合もある。見られたくないのにジロジロ見られたり、目立つせいで難癖つけられたり。難癖つけられるのが嫌で個性を押し殺すようになったり。



書いた文章がどれくらい伝わるのか、理解してもらえるのか、不安になることもあるけれど、だいたい伝わればそれでいいんじゃないかと。理解するというのは本当に難しい。理解したと思っていても、本当に心底理解したという証拠はなく、勝手に自分で理解したつもりになっているだけかもしれない。個性も同様に一面だけを見て、それがその人の個性だと思ってしまっているかもしれない。文章に個性はあらわれるけれど、でも文章がその人すべてではない。書かれた文章はその人から出てきた吐息のようなもの。にんにく料理を食べたときはにんにく臭がするだろうし、スイーツを食べたときは甘い匂いがするだろう。その時その時で変わるのが吐息であり文章だと思う。ガーリックの匂いが好きだという人もいれば、甘い匂いが気持ち悪いという人もいる。人それぞれ好き嫌いがあり、それをどうこう言ってもはじまらないので、とにかくわたしは書くことに専念しようと思う。