ブログを読んだらそのブロガーのことを理解できるのか。十分理解するには言葉が少なすぎる。読み手は言葉にしていないものを知ることはできない。

実は相当な数の下書き、ボツにしたブログの文章がパソコンに眠っている。ずらり並ぶタイトルはまるで墓標のようだ。
感じたこと考えたことを書き残し、しかしながら公開しないことも多い。
あまりに自己完結的だったり衝動的だったりネガティヴだったり、まあいろいろだ。
公開を躊躇う気持ちは、読んでほしいと思う気持ちと常に拮抗している。


読まれたあとの反応はありすぎてもこわいし、反応がなさすぎてもさびしい。
はてなスターの数は、やはり記事の内容に正直だ。どの記事も思い入れがあって、やっと生まれた記事たちばかりなのだけれど、どうしても差が生まれてしまう。同じ人が書いて、同じ位置に立ち、公開というスタートを切ったのに。


私たちもそうだ。同じ頃生まれた人は何万何十万人といるけれど、生まれた時期が同じ頃というだけで、親も違うし、育った場所も違う。受けた教育も違う。経験してきたことも感じたこと考えてきたことも違って、そうして10年20年30年という月日が経ち、ふと周りをみるとすごい人になっていたり成功していたり。比べるのは好きではないけれど、やはり比べてしまう。私は今まで何をしてきたのだろう、と。まあ、いろいろなことをしてきたけれど、どれも中途半端で形になっていない。胸を張って成果と呼べるものがない。


毎日、頭の中ではものすごく考えている。しかしながら、考えている時間が長く、行動できていない。だから形になったものがない。
何か形や成果といえるものがほしい。


約8年かけて2222の記事を書いたことをブログに書いたけれど、komoko.hatenablog.com
ただ書いただけで、相変わらず不安と自信の無さに振り回されている。


不安でも大丈夫。自信が無くてもなんとかなる。
そう思うようになったのはごく最近だ。


すごい人も成功している人も同じ人間だ。不安になることも自信が無いときもあるはず。



話をタイトルの話に戻そう。
今考えているのは、
ブログを読んだらそのブロガーのことを理解できるのか」ということ。
私の場合、読み手は私が感じている不安や自信の無さを知ることはできても、どうしてそんなに不安なのか、またどうしてそんなに自信がないのか、それはわからないだろう。
ブログに関することで打ちのめされ自信をなくした経験があるけれど、具体的にどういう言葉で打ちのめされたかは書いていない。(もちろん、打ちのめした本人はわかっている。しかしながら、記事を書いても本人からなんの反応がなかったので、もしかしたらちょっと厳しいことを言っただけで、打ちのめしたつもりはなかったかもしれない。)


ブロガーはすべてを書くわけではない。公開して差し支えないところだけを言葉にして公開する。そもそも経験したこと感じたこと考えたことすべてを言葉にすることは無理だ。


私もそうなのだけれど、言葉になったものだけ読んで「こういうことを書く人はきっとこういう人だ」と思いこんでしまうことがある。会ったことがなければなおさら、空想は膨らむ。言葉を自己解釈し、思いこみ、先入観となって、その人を色付きのメガネで見てしまう。それがあまりにも逸脱した状態になっていないか、時折自分を省みたほうがいいだろう。


ネットで「相手を十分理解するには言葉が少なすぎる」というのも今考えていることで、一体どれくらい言葉を尽くせば理解されるのか、もしかしたらどんなに多弁に言葉を尽くしたとしても、十分な理解は得られないかもしれない。


顔が見えないのがネットの世界。言葉でしか伝えられない世界のもどかしさと怖さと寂しさと、でもそれでもやはりネットをブログを使い続けるは、私に一番合っているツールだからだろう。電話やスカイプは合わない。どんなに不完全で不安定なツールだとしても、伝えたいこと、伝えたい人がいるかぎりこうやって発信し続けるだろう。


ただ、発信するといっても、かなり言葉を選んでいるし、冒頭に書いたように切り捨てて埋めてしまったものも多い。ブログに可視化されたのは氷山の一角に過ぎないのだということを知っていてほしい。
そして「言葉にしていない部分」を読み手は想像の、都合よい先入観で埋めていたりする。


読み手は言葉にしていないものを知ることはできない。
それは当然だ。
ブログに書いていない部分を根掘り葉掘り聞いてくる人がいるけれど、それは無粋だと思う。あえて書いていないことをどうして聞き出そうとするのか。単なる好奇心で聞いているのか、もしかしたら、想像したことが本当に正しいかどうか確かめたいだけのかもしれない。


長くなってしまったので、そろそろまとめよう。

ブログを読んだらそのブロガーのことを理解できるのか。十分理解するには言葉が少なすぎる。読み手は言葉にしていないものを知ることはできない。


書かれたものを読んだだけで相手のことを十分理解したつもりになるのは驕りだろう。
でもまあ、驕りに気づいたらもうその人は驕ってはいないわけで、相手を理解しようとする姿勢は大事だと思う。