良いほうに解釈するということ

優しく大切に育てられ、周りから好評価を受けてきた人は優しいし余裕があるように思う。
余裕があると、いろいろな言動を「人は良いほうに解釈してくれる」と思う傾向があるのではないか。もちろん個人差はあると思うけれど。
良いほうに解釈するというのは性善説の立場をとるとそうなるのかなと思う。


誰かに優しくされることで優しさを知り、誰かに優しくすることができるようになる、それはあると思う。同様に、良いほうに解釈されることを経験していると、その人自身も他の人の言動を良いほうに解釈するようになるのではないか。今日はその「良いほうに解釈する」ということについて書いてみたい。



良いほうに解釈することで正の連鎖が生まれる。これは言えると思う。
このブログも良いほうに解釈してくれる人、応援してくれる人がいるから続けられている。
読まれている実感が私にキーボードを打たせている。


もちろん書くのが好きだから続けているのだけれど、書いたものを読んで考えるきっかけをもらった、インスパイアされた、私も書きたくなった、そう言われるのが何より嬉しい。


誰かの役に立ちたい、誰かのために私ができることをしたい。
それは仕事のときも、ブログを書くときも思うことだ。


もらうことよりも与えることのほうが先。それはここ最近特に思っていることだ。
できることをやって(与えて)、そうすることで認めてもらえるのだと思う。承認されると言ってもいい。
何もしていないのに認めてほしい、優しくしてほしいと思うのは、おこがましいと思う。


生きていくのに必要なのは、認められること、承認されることだと思っていて、自分の書くものや言動はやっぱり良い方に解釈されたい。意地悪されるより、優しくされたい。



そして思う。優しくされたいのであれば、まず優しくすることだ。
どう優しくしていいかわからないのであれば、相手の言動をできるだけ良い方に解釈し、相手を認めることだ。悪意をもった解釈は心を荒ませる。自分も相手も。


どこかで書いた気がするけれど、否定は毒だと思う。
否定は、やる気や生きる意欲を奪う。自暴自棄になることもある。
否定的な表現には気をつけなければならない。自分が否定的なことばかり言っていないか振り返ってみるとともに、否定的なことを言われたとき、パニックにならないよう用心したほうがいい。その否定は正当な理由がある否定なのか、否定されるだけの非が自分にあるのか、冷静に考える時間を持つようにしたい。


ブログをはじめ、自分の言動が良い方に解釈されるとは限らない。視点や価値観の相違を目の当たりにして怯むこともあるけれど、でもそれが世の中、世間一般なのだと思う。世の中は冷たい、世知辛いと、そう評する人は少なくないだろう。


ただ、「冷たい、世知辛い」と嘆いたところでどうしようもない。嘆くよりは自分ができることを地道にやったほうがいい。文句だけ言って何もしない人にはなりたくない。


良いほうに解釈するということ。
自分とはちがう意見、価値観を認めるということ。
与えることからはじめるということ。


承認されることは勿論大事なことだけれど、行動が伴っていない承認ばかり欲しがっていないか時々チェックしたい。