昔の自分に似ている人を見つけるとつらくなる

誰かは書かないけれど、「ああ、この人は昔の私と似ているなあ」と時々思うことがある人がいる。どう似ているかというと、その人自身とても苦しんでいて、ストレスに押し潰されそうになっていて、見ていてつらくなるほどだ。その人はまだ若くて経験値も少なくて、どうしていいかわからないのだと思う。かく言う私だって経験が豊かというわけではない。けれど、もうあんなにもがき苦しむことはしたくないという経験をした。何もかも放り出してしまいたいくらいつらく、微かな月明かりの中を手探りで歩く日々だった。その日々を思い出せば泣けてくるので、最近はあえて思い出さないようにしている。隙間を作れば、そこから凍るような冷気が入ってきて動けなくなってしまう。体は常に温かくウォーミングアップした状態にしておきたい。いざという時すぐに動けるように。


話を戻して、昔の自分に似ている人は、とても頑張っている。貪欲でエネルギッシュだ。私よりもずっとエネルギッシュだ。だけどあまりにそのエネルギーが強すぎて、周りともぶつかり、軋轢を生んでいる。はっきりと意見を言い、押しも強い。この点は私とは違う。スポットライトを浴びても物怖じしないような人だけれど、見ていて痛くなるくらい前向きで、自分の考えが一番だというのも譲らなくて、それゆえ離れていく人も多い。魅力的だけれど、近づきすぎると棘が刺さりそうで、反射的に引いてしまうようなそんな感じかもしれない。尖りすぎていることをその人はまだ気づいていない。否、「丸くなったら負け」と思っている節もある。若いときはそんなものかもしれない。丸くなるのは年をとってからでいい。年をとっても尖っていてもいい。本人がそれを望むのなら。


ただ、思い通りにいかないことへの苛立ちを爆発させるとき、その爆発のさせ方は間違っていると思う。爆発させるのではなく戦略を。戦略を立てて行動すべきだと思う。冷静に。感情的にならずに。


ここに書いても、その人には届かないのはわかっている。わかっているけれど書いてみる。感情に振り回されて苦しんでいるその人がすべきことは落ち着くこと。慌てないこと。焦らないこと。パニックにならないこと。ヒステリーを起こさないこと。


感情的になっている人を見るのはつらい。コントロールする術を身につけられたら楽になるのになあといつも思う。


いつも冷静沈着なロボットになれ、と言っているのではない。
感情を爆発させることで得することは、おそらくない。そのことがわかれば階段を一段上がったと言っていいだろう。なんの階段を?おそらく「成熟した大人と言われるための階段」が一番しっくりくるかもしれない。階段をのぼっていった先から見える景色はどんな景色なのだろう。私はまだその景色を知らないでいる。