砂山が形になるとき

毎日の仕事が、やってもやっても終わらないのは積んでも積んでも決して高くならない砂山のようだ。
手を砂だらけにして、積んでも積んでも崩れてくる砂山を作って、疲労感だけが自分の中に積もっていく。積もり、沈みこんでいく。


沈みこんだところで、一度その手を離した。
胸が黒焦げになるように熱く苦しかった。
もう砂を積むのはイヤだと思った。


積めなくてもいい。
これまでやれるだけのことはやってきた。
だから、もういい。


いろんなものを我慢して、感情を殺して、そこまでしてしなければいけない仕事があるのだろうか。



仕事中でも自由に気持ちを、感情を吐露できる人が羨ましかった。
その一方で、どうして、そこまで感情を表に出し、周囲をやきもきさせるのだろうとも思った。


ブレない、安定感が仕事をするときの姿勢として必要だと思う。仕事中イライラとし声を荒げる人、不機嫌をあらわにする人は、正直ではあるけれど、自分のことしか考えていない、周りのことは考えていない、目に入っていないのだろうとも思った。誰でもそれぞれの仕事を抱え、大変で、その大変さはその人しかわからないものだったりするのに。



沈みこんだときも、淡々と。こつこつと仕事をするのがかっこいいと私は思っている。
憂鬱なこと、嫌なことも、とりあえず、そのままで、無理に解決しようとせず、とにかくやるべきことをやる。やっぱりやるしかない。



私は再び、砂山を作り始めた。
今度はもう無理はしない。
休めるときは休む。
無理だと思ったら、断る。
良い人を演じて、つぶれるのは自分だ。


さらさらと崩れやすい砂山だけれど、でも、今見ると、以前より積みあがっていることに気づいた。もう更地ではない。自分ではよくわかっていなかったけれど、これまで続けてきたことは無駄にはなっていないと。砂山が形になってきていると。砂は少しずつ積もり、固まり、少しずつ強くなってきている。


もう0ではない。


それがうれしい。


これからも、できることをやる、できることからやるしかないと思う。
淡々と、こつこつと。