愛されたとか幸せだったという記憶が、根底にあると、生きていくうえで、とても支えになるというのはあるかもしれない。
もちろん愛されたとか幸せだったというのは、主観の問題だというのもわかっている。愛されたとか幸せだったとか、そういうのは自分で決めることというか、自分で決めていて、自分で自分を呪縛しているとも言える。
自分で自分の感情や状況を定義して、その自分で定義したものに縛られ、呪縛に苦しんで、憂鬱になって、苛々して、心安らかとは言えない状態はつらいものだ。そのつらさから解放されるには、いったん忘れること、その苦しいことを考えないことだと思う。
考えないことは悪いことなのか。いや、そうではない。考えても考えてもどうしようもないことはあるものだ。それなら、いったん保留にして、気持ちを落ち着かせる時間を持つ。自分をラクにしてあげる。
もっと楽しい、穏やかな気持ちで、日々を過ごして、そういう感情でいるようにするのも自分次第で、自分の感情くらい自分でコントロールしようと、まあ偉そうなことは言えないけれど、自分の感情はコントロールは可能なものだと考える。もっとも、個人差もあるので、ある程度コントロール可能と書いた方がいいかもしれない。
日々不機嫌をデフォルトにしているのは、やはり自分で、それが習慣というか、慣れというか、常態化してしまって、意外と自分では、気づいていないのかもしれない。
自分は不幸だと定義してしまえば、それに縛られる。呪縛で、苦しくなるのは自分で、それは幸せについても言えるのではないだろうか。
誰かなんといおうと、自分は幸せだと自分で定義して、よそと比べない。
定義するのは、自分。
定義したのものに縛られるのも自分。
そんなことを考えたので、忘れないうちに書いておこう。