曖昧なスライム

今日は9月の最終日。自分のブログ画面を開いて、2018年の8月は全然ブログを更新していなかったことに、気づいた。
8月は、とにかく暑かったというのと、忙しかったという曖昧なことしか記憶にない。私の脳内は「曖昧なスライム」だ。もう少し説明すると、私の脳内には曖昧なものが水分を失いかけたスライムのように詰まっている(比喩)。
そういえば、時間の感覚も曖昧だ。ついさっき、虫の音を耳にして、いつの間にか夏が終わって、秋になっていることに驚いた。そういえば、少し涼しくなっているようだ。温度の感覚も暑さにやられてしまったようだ。


普段、日記をつけていないので、過ぎた日々を思い出すのは本当に難しい。スケジュール帳にも最低限のことしかメモしないので、あとから見返してもよくわからないことが多い。


「よくわからない」ということが「気持ち悪い」「もやもやしてイヤだ」という感覚もわからないわけではないけれど、そもそも「なんでもわかる」というのは幻想で、ありえないんじゃないかというのが、最近の私が思っていることで、
komoko.hatenablog.com
ここでも似たようなことを書いているのだけれど、わからないことに耐える力、耐性というのは、生きていくうえで(少しおおげさかもしれないけれど)大事なことなのかもしれないなぁと。簡単に書いてしまっていいかわからないけれど、未来というのはどうなるかわからないもので、わからないながらも、とにかく今やれることをやっておけば、まぁどうにかなるんじゃないかと。もちろん、あれこれと迷い、悩むのだけれど、誰かに相談したりする性質(たち)ではないので、最終的には自分で決めてしまう。自分で自分を納得させるやり方が、私には合っているのだと思う。相談した人に「こうアドバイスされたから」と、アドバイスに従ったとして、うまくいかなかったときに、アドバイスした人のせいにしてしまいそうで、それがイヤだったりする。「自分のことは自分で決めたい」とまぁそういうことなのだと思う。


今日は今読んでいる本の紹介をしようと思っていたのだけれど、書き始めたら、そういう気分が消えてしまった。日をあらためて本の紹介をすることにする。


明日から10月。もう少し日々を丁寧に、一行でも二行でもいいから、日記的なものを書き残すようにしたい。たった一ヶ月前のことが何も思い出せないのは悲しいというか、そうだね、悲しいというより、むなしい。その一言に尽きる気がする。「日記的なものでブログを再開するのもいいかもしれない」と思ったところで、はてさて、有言実行となるかどうかは、曖昧なスライムの元気次第でしょうか。