息抜き読書

息抜きも時には必要だ。
やらないといけないことは、数えたくないほどあるのだけれど、まぁこれまでやらなくても「なんとかなっている」のだから、少々先延ばししても大丈夫だと思わないでもない。それより「息抜き」だ。さっき「生き抜き」と変換されて、少し驚いたけれど、「生き抜くための息抜き」というのはまんざら的を射ているようにも思えなくもない。


最近いろいろなことがありすぎて、多少のことでは驚かなくなっている。自分の中にある感覚が麻痺してしまっていて、「これはまずいな」と。「苦しい」とか「つらい」とか、そういう感覚も、長く続くと、当たり前のようになってくる。「痛みを感じなくなる=麻痺」の自覚。疲れているせいもある。ストレスのせいも。


そして、思った。これからどうなるんだろう、と。


不安になる癖はよくない癖だ。


不安を少しでも薄められるのであれば、なんだってする。
なにもしないから、不安が濃く沈殿していくのだ。


さて、何をしよう。


どこか行ったことがない場所へ、ふらりと旅行するような、そんなタイプではわたしはないので、結局のところ、昔からしていることに原点に戻るのがベストチョイスな気がする。


で、読書。
読みたいと少しでも思えた本を、手元に30冊くらい集めて、少しずつ読んでいくことにした。



まず読んだのがこの本。
ヤマザキマリさんといえば、『テルマエ・ロマエ』を書いた漫画家さんなのだけれど、

ヤマザキマリさんが語るヤマザキマリさんのお母さん(リョウコさん)は確かに破天荒なのだけれど、その破天荒さがヤマザキマリさんに最終的には良い影響を与え、現在へと至っているようにも思えてならない。


人が千差万別であるように、親も千差万別。親には親の生き方があって、子には子の生き方がある。


なにを悟ったようなこと書いているんだ?と自分で思わないでもないけれど、人が千差万別であるのは確か。簡単にタイプ分け、カテゴリー分けしてほしくないと思うし、見えている部分以上に見えていない部分(見せていない部分)のほうが広大だということをわたしは常々思ってやまない。


自分の中の感覚の麻痺が、読書で治るかどうかは、自分でもまだわからない。
わからないけれど、こうして考え、何か書こうとなったのは、よい兆候かもしれない。