過去記事から感じたこと

実は、この前更新した記事がこのブログの2400個目の記事だった。
自分の過去記事はめったに読まないのだけれど、記事数という数字にはこだわっている自分に気づいて驚いた。
2400。
これは、およそ11年間で書いた記事数だけれど、これは、多いのか、多くないのか。


365×11=4015
11年というのは約4015日。(うるう年もあるので、約4015日)
4015日のうちの2400。


よくまぁ書いたものだ。


過去記事には、過去の自分がいて、今あらためて時を経て見ると、今の自分と違っていて、面白い。
とはいえ、「過去(昔)がよかった」とは簡単には言えなくて、よいこともあったけれど、よくないことも多かったなぁと。


ブログを書くことで「得たもの」と「失ったもの」は、「失ったもの」のほうが多いかもしれない。
というのも、得たものは、永遠に手にしていられるわけではなく、実際は「得たものを失い、残ったのは喪失感だけ」だったりする。


残った喪失感を抱えたまま、ブログを更新することはつらい作業だ。
「たかがブログ」と片付けられないほど、のめりこみ、ブログに時間を費やしてきた。
さまざまなものを得、時は流れ、失くしていった。
その喪失感は、いつ癒えるかもわからず、もうこの際「癒えないままでもいいのではないか」と、そんな風にも思えてくる。


「癒えないままでもいい」というのは、決して投げやりなどではなく、
喪失感を感じながらも、なんとか立っている自分を少し誇らしくも思うし、しかしながら、
失ったものの大きさを考えると、すんなりと癒えてはいけないような気がして、
喪失感とともにこのブログを続けていくのも、一過程として実験的で面白いかな、と。


自分の過去記事を読んで、感じるのは「喪失感」ばかりだ。
今はもう「ないもの」が、なんと多いことか。


それら「ないもの」を再確認するのは、つらいことだ。
でも、その再確認が人を強くするのではないか。ポジティブに考えるのなら、そうも考えることができる。


今はまだ再確認しただけで、先のことはわからない。


ただ「もうないもの」を数えるよりは、「まだあるもの」を見ていたほうが、精神的に楽なのではないか。