読書について

以前ほど他の人のブログを見ないのだけれど、
年末、読んだ本をまとめたブログ記事をいくつか読んで、少し反省した。本を読んでいる人は読んでいるのだなぁ。


私は、以前より本を読まなくなってる。
専門的な勉強の本は読むけれど、小説など昨年はほとんど読んでいない。


ああ、視野狭窄に陥っているなぁ。


あんなに本を読むのが好きだったのに、今は細かい字を読むのがめんどくさくなっている。
本を読み、思考するのが、億劫になっている。


これは、よくないんじゃないだろうか。


おそらく以前のように本を読むことはできないだろうけれど、少なくてもいいから、地道に本を読む習慣を復活させたい。
本はもちろん電子書籍でもいい。というか、最近は電子書籍のほうが、読むのが楽だ。


本自体手軽に手に入れられるようになったのに、読み始めるまでが、小高い丘のうえに鎮座していて、眺めては他のことをしてしまう。読みたいという欲求が砂浜のどこかに埋もれて隠れてしまっている。それを掘り起こそう。


これは「あれもこれもやりたい」という欲を持たないという今年の抱負に反するのかもしれないけれど、なにもしないでおくというのは土台無理なことで、やることを厳選して、その中のひとつを読書にしようかと。


アンチ整理術

アンチ整理術

アンチ整理術

アンチ整理術

今、読んでいる本。今年の一冊目。
読んでいると、この本もまた「森先生の安定した物言い」に安心感を持つのだけれど、私自身ブレない人が好きで、それでいて天邪鬼(あまのじゃく)な、普通とはちがうことを言って、それを論理的に証明してみせるその一連の流れをかっこいいと思ってしまう傾向があって、「他の人とちがってもいい」ということを再確認させてくれる森先生の本が毎日飲むコーヒーのように好きだ。



2020年の抱負

新年というのは、気持ちを新たに切り替える節目になるので、よいなと思う。
とはいえ、まだ年が変わったという実感はなくて、そもそもまだ令和というのにも慣れていなくて、普段は西暦を使って書いたり言ったりしている。今年は2020年で、ああ、もう2020年、オリンピックの年になったのか、というのが第一印象。2020年なんてまだまだ先だと思っていたのに。


休みの日も目が覚める時間はだいたい決まっていて、体が習慣で覚えているのだと思う。アラームはかけているけれど、いつもアラームの前に目が覚めてしまう。そして、いつものようにお湯を沸かし、元旦(がんたん)と元日(がんじつ)のちがいは何だったかななどと、つらつらと思いながら、コーヒーを飲んだ。


テレビで、富士山に上る初日の出を見る。
そして、その初日の出を見ようと、スマホやカメラで撮影しようと現地に行っている人が大勢いることを知る。
昨晩は、除夜の鐘をリアルで何年も聞いていないことに気づいて、じゃあいつものようにテレビで除夜の鐘を聞いて、それから寝ようと思ったのだけれど、結局、テレビを見ないまま寝てしまった。テレビをつけていないと静かでよい。今年はテレビを極力つけないようにしようかな。


さて、今年は、というか「今年も」忙しくなりそうなので、心がけたいのは「平常心」。落ち着いて、淡々と、段取りよく。
特に「段取りよく」というのは、時短にもなるし、時短になれば、時間も生まれるので、それは心の余裕になる。時間があれば体を休めることもできる。
「あれもこれもやりたい」という欲は今年は持たないようにして、「平常心」で平常運転。
「平常運転しながら、日々思ったことを日記的に書いていこう」というのを今年の抱負にしようかな。



2019年の終わりに

気がついたら、2019年も終わろうとしていて、この1年何をしていたのか振り返ると、
「仕事ばかりしていた」。これに尽きる気がする。
あとは、勉強(英語などではなく仕事に関する専門的な勉強)。これも本当によくやったと思う。
時間があれば用語集や問題集、参考書を開き、いつもこの3つのどれかを持ち歩くようにしていた。


悔しさとかコンプレックスというのは、バネになると思う。
登っていた梯子(はしご)を外された悔しさ。学歴のコンプレックス。
学歴なんて関係なく働ければいいのだけれど、そうも言ってられないのが、今の日本の現実で、少なくとも私は学歴で値踏みされ、悔しい思いをした。最近は年齢で値踏みされることも多くなった。若いほうがよいとする文化は、まだ根強く残っているようだ。(職種にもよるだろうが)


まぁ、不利になることが増えていくなかで、自分ではよく健闘していると思っている。2019年最後の日、この1年間の自分の健闘を称(たた)えたい。


大人になると、褒められることがほとんど皆無になる。だから、自分で自分を褒めようと思う。
「私なんて」と自己卑下することが多かったのだけれど、そんな「私」でも、まぁよくやっている。


ただ、少し疲れてきているかもしれない。
うまく息抜きができなくて、笑うこともほとんどなくて、不安になったり、苛々したり。


だから、平常心。
来年の抱負を、今もう書いてしまうのなら、ひとこと「平常心」だ。
詳しくは年が変わってから、書くことにしよう。



目標、ゴールを設定すると面白くなる。

最近思ったのは、主に仕事で自分で設定した目標やゴールがあると、張り合いがでて、面白くなるということだ。


まぁ、その目標が無謀、無理だったりすると、結局達成できずに凹むのだけれど、
でも目標に向かっている間は、面白くて、ポイントは、「自分で設定した目標」だということ。
これが、「誰かに言われた目標」だと素直に迎合できなくて、自分の裁量や自由度がある仕事がないとダメだ。
もちろん、マニュアル的なものも、必要に応じて従うし、そのとおりにすることもできる。
でも、すぐに飽きてしまう。同じことの繰り返しが苦手で、次々と新しい目標を立てていくほうが、わたしには向いていると思う。


そんな風に思えるようになったのも、やはりいくつもの仕事を経験した(転職した)からなのだと思う。


転職するなら、若いうちに。
それは今でも思う。


過去、毎日のように泣きながら車で通勤してたことがあったのだけれど、あれは、やはり仕事が自分に合っていなくて、苦しかったのだと思う。当時はどうして泣くのか、よくわかっていなかったのだけれど、今なら、わかる。思い切って転職したのは、正解だったのだと思う。


さて、目標、ゴールを設定すると面白くなるというものの、プレッシャーとかストレスがないわけではない。
「自分で設定した目標にプレッシャーとかストレスとかあるものなの?」
そういうツッコミも聞こえてきそうだけれど、目標がたびたび達成されないのは自分の実力のなさなのか、それとも何か他に原因があるのか、もしかしたら何か他のやり方で、うまくやれたのではないか等々、あれこれ考えてグルグルしてしまう。


もちろん、目標が達成されればうれしい。うれしいけれど、そのうれしさは「つかのま」だったりする。仕事は続く。まだまだ続く。また次の目標に向かって、動きださなければ。


この動き出すまえの、あれこれ策を練る時間が、実はとても好きで楽しかったりする。
ふとアイデアが浮かんだり、こうしたらもっとよくなるんじゃないかという改善策を思いついたり。


改善という言葉が好きだ。


目標、ゴールを設定すると面白くなる。面白くなるけれど、のめりこみすぎて、燃え尽きないようにしたい。



過去記事から感じたこと

実は、この前更新した記事がこのブログの2400個目の記事だった。
自分の過去記事はめったに読まないのだけれど、記事数という数字にはこだわっている自分に気づいて驚いた。
2400。
これは、およそ11年間で書いた記事数だけれど、これは、多いのか、多くないのか。


365×11=4015
11年というのは約4015日。(うるう年もあるので、約4015日)
4015日のうちの2400。


よくまぁ書いたものだ。


過去記事には、過去の自分がいて、今あらためて時を経て見ると、今の自分と違っていて、面白い。
とはいえ、「過去(昔)がよかった」とは簡単には言えなくて、よいこともあったけれど、よくないことも多かったなぁと。


ブログを書くことで「得たもの」と「失ったもの」は、「失ったもの」のほうが多いかもしれない。
というのも、得たものは、永遠に手にしていられるわけではなく、実際は「得たものを失い、残ったのは喪失感だけ」だったりする。


残った喪失感を抱えたまま、ブログを更新することはつらい作業だ。
「たかがブログ」と片付けられないほど、のめりこみ、ブログに時間を費やしてきた。
さまざまなものを得、時は流れ、失くしていった。
その喪失感は、いつ癒えるかもわからず、もうこの際「癒えないままでもいいのではないか」と、そんな風にも思えてくる。


「癒えないままでもいい」というのは、決して投げやりなどではなく、
喪失感を感じながらも、なんとか立っている自分を少し誇らしくも思うし、しかしながら、
失ったものの大きさを考えると、すんなりと癒えてはいけないような気がして、
喪失感とともにこのブログを続けていくのも、一過程として実験的で面白いかな、と。


自分の過去記事を読んで、感じるのは「喪失感」ばかりだ。
今はもう「ないもの」が、なんと多いことか。


それら「ないもの」を再確認するのは、つらいことだ。
でも、その再確認が人を強くするのではないか。ポジティブに考えるのなら、そうも考えることができる。


今はまだ再確認しただけで、先のことはわからない。


ただ「もうないもの」を数えるよりは、「まだあるもの」を見ていたほうが、精神的に楽なのではないか。





更新されなくなったブログは読まれるのだろうか

ふと思ったので、書いてみる。
「更新されなくなったブログは読まれるのだろうか」ということ。


結論から言えば、「ある程度読まれる」。
読まれているのは、過去記事。
このブログも過去記事が2000以上あるので、日々どれかの記事が読まれているようだ。
(このブログではないけれど、過去記事が少ないブログの場合でも、週に10~20のアクセスはある)


当ブログの詳細なアクセス数は公開しないようにしているので、厳密には書かないけれど、更新しなくなった最近でも「最盛期の4分の1のアクセス」があるようだ。逆に言えば、最盛期は4倍のアクセス数があったわけで、これは、「はてブ」や「ほってんとり」「ニュースサイト」からのアクセスがかなり影響している。


当時は、更新することが楽しくて、書かずにはいられなくて、書いたもので承認欲求を満たすことに躍起になっていたのだと思う。
そして、その承認欲求を満たす場が「ブログ」から「仕事」へとシフトして、自然とブログから遠ざかっていったのだと、自分で分析するのだけれど、それでも、「ブログ」と「仕事」の両立はできなかったものなのか、と思わないでもない。


たいして器用でもない自分が両立を目指せば、きっと無理がくる。
ブログを2000以上書いていくうちに、自分の思うようにはならないという「ブログの限界」を感じていたのも事実で、そもそもその「ブログの限界」の理由は「わたし自身の中身のなさ」でもあったように思う。


書きたいこと、書けることがなくなれば、自然と更新回数も減っていく。
「中身のなさ」は明らかなのに、いつも似たようなことしか書けないのに、無理やり更新するようなことはしたくなかった。ブログのことはいつも頭のどこかにあったけれど、「中身のなさ」の露呈が怖くて、それで更新できなくなっていった。おそらくそういうことなのだと思う。


このブログにかぎらず、多くのブログが更新されなくなっていく。更新されなくなるのは、個々それなりに理由があって、それを外野がとやかく言うべきではない。
そして、更新されなくなったブログが忘れさられても、それは仕方がないこと。



仕方がないこととはいえ、忘れさられるのは、悲しいものだ。


11年前、わたしが書いた記事。
komoko.hatenablog.com
これは書いたのを珍しくはっきり覚えている。気に入っている記事だ。


今日のタイトルに戻る。
「更新されなくなったブログは読まれるのだろうか」
更新されなくなったブログでも読まれる。
読まれるけれど、それは過去記事への一見さんばかりだ。
たまたまちょっとのぞいただけで、10秒も読んでいなかったかもしれない。
「読まれる」というのは、そういうことではないように思う。
わたしは、過去記事も含めて「その人が書くものが読みたい」そう言われるブログ主になりたい。


中身のなさに、おびえていてはいけないと思う。
そのとき、書けることを書けばいい。
ブログというのは、そういうものだと思う。



息抜き読書

息抜きも時には必要だ。
やらないといけないことは、数えたくないほどあるのだけれど、まぁこれまでやらなくても「なんとかなっている」のだから、少々先延ばししても大丈夫だと思わないでもない。それより「息抜き」だ。さっき「生き抜き」と変換されて、少し驚いたけれど、「生き抜くための息抜き」というのはまんざら的を射ているようにも思えなくもない。


最近いろいろなことがありすぎて、多少のことでは驚かなくなっている。自分の中にある感覚が麻痺してしまっていて、「これはまずいな」と。「苦しい」とか「つらい」とか、そういう感覚も、長く続くと、当たり前のようになってくる。「痛みを感じなくなる=麻痺」の自覚。疲れているせいもある。ストレスのせいも。


そして、思った。これからどうなるんだろう、と。


不安になる癖はよくない癖だ。


不安を少しでも薄められるのであれば、なんだってする。
なにもしないから、不安が濃く沈殿していくのだ。


さて、何をしよう。


どこか行ったことがない場所へ、ふらりと旅行するような、そんなタイプではわたしはないので、結局のところ、昔からしていることに原点に戻るのがベストチョイスな気がする。


で、読書。
読みたいと少しでも思えた本を、手元に30冊くらい集めて、少しずつ読んでいくことにした。



まず読んだのがこの本。
ヤマザキマリさんといえば、『テルマエ・ロマエ』を書いた漫画家さんなのだけれど、

ヤマザキマリさんが語るヤマザキマリさんのお母さん(リョウコさん)は確かに破天荒なのだけれど、その破天荒さがヤマザキマリさんに最終的には良い影響を与え、現在へと至っているようにも思えてならない。


人が千差万別であるように、親も千差万別。親には親の生き方があって、子には子の生き方がある。


なにを悟ったようなこと書いているんだ?と自分で思わないでもないけれど、人が千差万別であるのは確か。簡単にタイプ分け、カテゴリー分けしてほしくないと思うし、見えている部分以上に見えていない部分(見せていない部分)のほうが広大だということをわたしは常々思ってやまない。


自分の中の感覚の麻痺が、読書で治るかどうかは、自分でもまだわからない。
わからないけれど、こうして考え、何か書こうとなったのは、よい兆候かもしれない。