お湯が出なくなった話

先日給湯器からお湯が出なくなった。
浴槽にお湯をためようとしたところ、途中からエラー(3桁の数字)が出て、お湯が出てこない。


故障だったら困るなあと思いつつ、なんのエラーか給湯器の取扱説明書で調べてみようとした。
ところがその取扱説明書が見当たらない。
数年前に給湯器を新しくしたので、確かにその時に取扱説明書をもらい、
取扱説明書は棚の同じところにだいたいまとめているので、
そこにあるはず。なのに、ない。



はてさて、どうしよう。


正常なら、お湯の設定温度が画面に表示されるのに、
今は無常に3桁の番号が点滅するのみ。


給湯器の本体は外にあるので、凍結とか水の流れが悪くなっているとか、多分そういうことだろうと予想された。
では、その場合、どうしたらいいのか。
外が寒い間は使えないということか!!!!!
昼間、気温が上がれば使えるようになるということか⁈
それでは、夜お風呂に入れないではないか。
寒い冬の間の一番の楽しみは、温かいお風呂に入ることだというのに、
あんまりだ!!!!!!


取扱説明書が見当たらない。
では、どうしたらいいか。


ネットだ。
ググれば、いいんだ。
エラー番号や給湯器の機種で検索をすれば、
なにかしら、ヒントが見つかるかもしれない。


検索してみた。


ヒントどころか、答えが、給湯器メーカーのサイトに載っていて、
どうしたらいいか、わかった。
やった!よかった!
ビバ、いんたーねっつ!


後日取扱説明書も見つかったのだけれど(行方不明なままにしておきたくなくて探した)
それほど詳しいことは書いてなかった。あああああ(天を仰ぎながら)
ネットのほうが詳しかった。
ビバ、いんたーねっつ!



アガサ・クリスティーを英語で読む

以前から挑戦したかったことに挑戦している。
それは、ミステリーを英語で読むということ。
以前は大きな書店に行ったとき、ペーパーバックを買って読むということをしていたけれど、
最近はkindleで洋書もさくっと手に入るので、本当に良い時代になった。


「洋書を読むなんて難しそう」と思う人もいるかもしれない。
確かに、よくわからない単語も出てくるし、日本語で読むより時間がかかる。
なので、一応訳されたものも手元に置いておくことにした。

今回は、すでに一度読んだことがある作品にした。
一度読んだことがある作品だと、登場人物もだいたいわかっているし、
話の筋も頭の中に入っている。それでも、英語で読むというのは、なかなかたいへんだ。
それでも英語で読もうというのは、
アガサ・クリスティーがどういう風に英語で書いているか知りたかった」という気持ちが強いからに他ならない。
時間がかかってもいいから、丁寧に英語を大量に読んでみたいと、翻訳された日本語版に助けられながら読み進めている。


そして、今English Editionを読みながら、これを日本語にうまく訳すというのは、本当にたいへんだなぁ、すごいなぁとそう思うわけで。

しばらく英語の海をのんびり泳ぐことにしよう。



痛みを意識をする、誰か(何か)を意識する話

寝ていて、頭が痛くて目が覚めることがある。
それが頻繁に続いたので、病院で検査してもらって、通院したりした。


頭痛とか体のどこかの痛みというのは、
それを意識し始めたとたんに、
さらに痛みを感じるようになるのは、私だけだろうか。



つまり痛みを意識する(フォーカスする)と余計に痛みが際立つというか、
痛いという現象が頭から離れられなくなる。
「痛い」ということばかり考えてしまう。


肩こりもそうかもしれない。
肩がこったなぁと感じ始めた(意識し始めた)とたん、
肩こりをどうにかしたいと、そっちに意識が持っていかれてしまう。


逆に痛かったけれど、
他の事に集中して、いつのまにか痛みのことを忘れて(感じなくなって?)いる場合もある。



以前、働いていた職場で、どうにも合わない、ひとことで言えば「性格がきつい」上司がいて、
毎日顔を合わせるのが本当に嫌で嫌で、
その上司を意識すればするほど憂鬱になって、仕事に行きたくなくて、毎朝泣いていた。
そうするうちに、その上司が人事異動になって、新しい上司が来た。
新しい上司は、穏やかな人だった。
性格的にどうにも合わなかった上司とは、まぁ1か月に1回顔を合わせるくらいの関係になって、本当にほっとした。
それでも、1か月に1回くらい顔を合わるときは、その元上司を意識し、元上司から過去いろいろ言われたことを思い出して、勝手に憂鬱になっていた。


意識する、誰か(何か)を意識するということは、
自分自身にかなり影響を及ぼすことなのかもしれない。


最近では、部屋の寒さが気になって、つまり意識してしまって、家にいる間、寒いことばかり考えてしまう。


何かに意識が集中してしまうと、他のことを考えられなかったり、他のことができなかったりするので、要注意だ。


もっとも、なんにも意識することなく、1日を過ごすことは無理だろうから、
とりあえず、リラックスして、心地よく過ごすこと、そちらに意識を向けるようにしたい。



働くとか幸福とか価値とか貢献とか、それらについて文章にすることは、なかなか難しい。

読んだ本『人生は苦である、でも死んではいけない』(岸見一郎)


この本の中に『働くこと自体が目的ではなく、幸福であるために働くのである』とあって、
まさにそうだなと思って、そのことについては、またあらためて書きたいと昨日書いたのだけれど、
このブログで「あらためて書きたい」と書いて実際に書いた試しがない(おそらく)ので、そろそろ本当に書いてみようと思う。(まじで?)


『働くこと自体が目的ではなく、幸福であるために働くのである』という一文。
久しぶりに「そうだ」と納得する一文だ。



私の場合、仕事をしている間、かなり「気」を張っている。
神経を使っているといってもいい。
それが年末年始、仕事をしていなくて、「気」が抜けてしまうと、
次は「不安」が押し寄せてきて、どうしようもなくなってしまう自分がいる。
この「不安」はどういう「不安」なのか表現するのは難しい。


休みの時くらいのんびりしたらいいのだけれど、
のんびりしていいのか躊躇する自分がいて、
こう書くとワーカホリックなのかもしれないけれど、
仕事をしているときのほうが、安心する。
もちろんストレスも溜まるのだけれど、
それでも、仕事がなかった頃を思えば、
不採用が続いた頃を思えば、
多少のストレスは仕方がない。


上記一文にあったように
『幸福であるために働く』
自分のためだけでなく、家族の、周りの、仕事に関わる人すべてのために、できることをやる。
こんな自分でもできることがある。
それがうれしい。
だから働き続けられるのかもしれない。


逆に働いていなければ、幸福ではないのか、という問いも生まれるけれど、
これについては、働いていなくても、幸せだとその人がそう思えばそうであるし、
要は、その人の考え方、感じ方次第なのではないかと。


人の幸不幸は、他者から見て本当のところはわからない。
「幸せ」そうに見えるだけで、実際のところは、わからない。
勝手に「幸せ」だと、他者が決めつけているだけのこともある。
不幸な部分は表には見せたがらない、隠したがるものだ。ゆえに「不幸な部分は見えない」から幸せそうに見えるだけかもしれない。


話を戻して、
働くことで、自分ができることを確認できるというのはあると思う。
貢献感が安心感を引き寄せるのかもしれない。


この本の中で

働いている人もそうでない人も、生きているという点では同じであり、生きているだけで他者に貢献できるーそう感じられる時、誰もが自分に価値があると感じることができるだろう。
人生は苦である、でも死んではいけない (講談社現代新書)』より

とある。
自分に価値があると感じること、これは生きる上で必要なことで、でもまぁ、価値を決める基準や価値観なんて人それぞれ違うし、価値があろうとなかろうと、生きてる。それでいいと思う。他者への貢献ができればそれにこしたことはないけれど、でもそれがすべてじゃないと思うのだけれど、貢献とは一体何なのだろう。貢献は、誰かに強制されたり、自分からアピールするようなものでもないし、なかなか扱いにくい言葉だったりする。


働くとか幸福とか価値とか貢献とか、それらについて文章にすることは、なかなか難しい。
ヘビィで首から背中からガチガチに重く硬く締めつけられるようだ。
このブログで「あらためて書きたい」と書いて実際に書いた試しがない、その通例を打ち砕きたくて書いてみたけれど、
自分が石化するとは思いもよらなかった。精神的消耗も相当なもので、こういう場合、すぐに他のことをしたほうがいい。
考えること書くことは楽しい。でも、それだけじゃなく副作用もあることを思い出したところだ。



読んだ本『人生は苦である、でも死んではいけない』

読んだ本『人生は苦である、でも死んではいけない』(岸見一郎)

人生を過去・現在・未来という直線として見るのではなく、
「今ここ」を生きたい。
誰もが必ず死ぬとしても、死は人生の目的地ではないのだから。

そうするためには、一つには、過去を手放すことが必要だ。
忘れることができない、また、忘れてはいけない過去があっても、
生きるためにはあえて過去を手放さなければならない。
過去に戻って人生をやり直さなければ―実際、そのようなことはできない―
今後も生きづらいと思いながら生きるしかない。しかし、過去を手放せば、
いつからでも人生をやり直すことができる。
人生は苦である、でも死んではいけない (講談社現代新書)』より


本を読んで、
過去を手放し、ありのまま、今の自分でOK。
そんなことをつらつらと思ったのだけれど、
その過去を手放すのいうのが、本当に難しい。


私はよく「記憶」という言葉を使うのだけれど、
この「記憶」というのは、まぁ役に立つこともあるけれど、
「記憶」に苦しめられることも多い。
Deliteできない「記憶」が、つらさの根源であることが多い。

忘れることができない、また、忘れてはいけない過去があっても、
生きるためにはあえて過去を手放さなければならない。
人生は苦である、でも死んではいけない (講談社現代新書)』より

生きるためにあえて過去を手放す
生きるために忘れる。
生きるために忘れなければならない。
そう、忘れられるのであれば、忘れてしまいたい。
そう思っても、なかなか忘れらない「記憶」は、自分では解けない一種の「呪い」「呪縛」なのだと思う。

さらに、未来も手放さなればならない。
未来は「まだない」のではなく、ただ「ない」のである。
人生は筋書きが決まっている芝居やドラマではない。
存在しない未来を思って不安になっても仕方がない。


たとえ、これまでの人生がどれほどつらいものであっても、
これからの人生も同様につらいものになると決まっているわけではない。
もっとも楽になるとも決まってはいないが。
人生は苦もあれば楽もあるというよりは、苦なのだから。
それでも、生きる。
人生は苦である、でも死んではいけない (講談社現代新書)』より

『存在しない未来を思って不安になっても仕方がない。』とはいえ、
ある程度の想像力を持っている以上、不安にならないなんて、それはちょっと無理だ。少なくとも私は。


「まぁなんとかなる」と思いながらも、「なんとかならなかったらどうしよう」という自分もいて、最悪の事態を想像してしまう。
そして、その「最悪の事態にならないためにはどうしたらいいか」考えることで、やっと顔をあげていられる。
「最悪の事態を回避するためにできることがなにかあるはずだ」と、その「なにか」を考えるのは、存外楽しい。
考えること、それ自体が楽しくて、その考えたことを書くのが楽しい、好きということかもしれない。


自分の人生だから、自分が好きなことをしていいんだよ。
もっと気楽にしていい。
そう考えを転換(?)すると、
「記憶」の呪縛が少し弱まる気がする。
呪いが解けるほどではないけれど、とりあえず「記憶という呪い」による死から遠ざかれそうだ。


「記憶」をうまくDeliteできない(忘れられない)のであれば、
なんとかうまく折り合いをつけていくしかない。
そう、なんとか、なんとか。


この本の中に『働くこと自体が目的ではなく、幸福であるために働くのである』とあって、まさにそうだなと思ったわけで、
そのことについては、またあらためて書きたいかな。



外出系の用事をついずるずると先延ばししてしまうので、どうすればいいか考えた。

外出して済ませなければいけない用事などを箇条書き(チェックリスト)にしておくことが多い。
そして、それらをまとめて済まそうとするのだが、
いくつもすることがあるので、ものすごく出かけたくなくなる。
ついついずるずると先延ばししてしまうこともしばしばだ。
どうすればいいか考えてみた。


とりあえず2つか3つだけ済ませるのはどうだろう。
残りは次回。
となると、その残った用事が結局は気になって、すっきりせず、むしろ気になる分リソースを奪われていくようなそんな気がしてくる。


なので、これは、ご褒美作戦(プチご褒美作戦)にするしかないな、と。
箇条書きした用事をとにかく全部クリアできたら、
好きなスイーツをひとつ買っていいことにするとか、プチご褒美を設定してみようと。


何かゴールにあるものがないと、動きたくないのもなんだか情けないけど、
ずるずると先延ばししないための策を自分で見つけられないのだからしょうがない。


「何時までにこれを終わらせる」とか
「何時になったらこれを始める」とか
単品を自分で決めるのは結構好きで、
例えば
「晩ごはんを作り始める時間」とか
「お風呂に入る時間」とか
そういった個々のものは、わりと決まった時間にできている。
これは、まぁ「習慣」というものかもしれない。



一方で、いつもはしない用事をするのが
億劫で、苦手で、ストレスで、
それゆえ用事が溜まっていき、
まとめて済まそうとして、
冒頭のようなことになってしまう。


まとめて済ませた方が時間の節約になることも多いし、
外出系の用事はまとめて済ませようとする習性は、たぶんこれからも変わらない。
まとめるとめんどくさくなるという「おまけ」はつくのだけれど。


とりあえず、重い腰を上げるにはご褒美作戦(プチご褒美作戦)で、どうにかやってみよう。



早く映画が見たいので『ナイルに死す』(アガサ・クリスティー)読んでみた。

今、これを書いている時点ではまだ公開されていないのだけれど、


ナイル殺人事件』(20th Century Studios) 2021年劇場公開予定
映画『ナイル殺人事件』『フリー・ガイ』公開延期のお知らせ|ニュース|ウォルト・ディズニー・スタジオ公式


早く映画を見たいと思って、原作を読んでみた。
新訳版の『ナイルに死す』だ。

1937年に発表された有名なアガサ・クリスティーのミステリーだ。
アガサ・クリスティーのミステリーの中でもエルキュール・ポワロのシリーズが好きだ。(エルキュール・ポワロは私立探偵)
ちなみにアガサ・クリスティーの最初のミステリーは『スタイルズ荘の怪事件』で、
アガサ・クリスティー(特にポワロのシリーズ)を読んだことがない場合、『スタイルズ荘の怪事件』から読み始めるのがいいかもしれない。ちなみにエルキュール・ポワロのエルキュールは、ギリシャ神話に出てくる英雄「ヘラクレス」をフランス語で発音すると「エルキュール」となるらしい。


『ナイルに死す』に話を戻す。できるだけネタバレはしたくないけれど、まったくしないわけではないので、『ナイルに死す』を未読で、ネタバレを踏みたくない人は、ここでこの記事を読むのをやめてほしい。









ナイルというのは、もちろんエジプトのナイル川で、このナイル川上流への船旅の最中に殺人事件が起きる。
客船という密室の中(簡単には外に逃げられないという状況下)、人を殺すというのは、いやはや、なかなか度胸があるなぁと。さまざまな人が多く集まる観光地のほうが逃げやすく、実際、一度は事故に見せかけて殺されかけたりもしたのだけれど、結局は、船上で計画的な殺人が実行されてしまう。とはいえ、実際は計画は狂ってしまい……。

実際にアガサ・クリスティーがエジプトのナイル川の航海する旅のあとこの作品は書かれた(1937年発表)ようで、時代的には第一次世界大戦第二次世界大戦の間になるのかな。作品の中でアブ・シンベル宮殿(現在は世界文化遺産に登録されている)やアスワン(アスワンダムは1901年にイギリスが建設)といった名前が出てくるので、世界史の知識があったら、いろいろとわかる部分もあって楽しめます。1978年に映画になっているらしいのですが、この映画は見ていません。


2020年公開予定だった映画(ケネス・ブラナー監督・主演)が延期されてしまったので、その映画が早く公開されるといいなぁと首を長くしているところです。
映画『ナイル殺人事件
www.20thcenturystudios.jp