大人になるには時間がかかる

最近思っていることを言語化してみようと思う。
最近思っているのは、「大人になるには時間がかかる」ということ。


「20歳になれば大人の仲間入り」
とも言えるけれど、
実際20歳で大人と言えるかといえば、私の場合、20歳時点で大人とは言えなかったなと。


じゃあ今は大人なのかといえば、まぁ大人と言えば大人だけれど、
これでよかったのかなと思うことがしばしばある。


そもそも大人の定義というのは人それぞれで、漠然としているように思う。


子どもの頃は「大人は漫画なんか読まない」みたいに思っていたけれど、
実際そんなことはない。大人でも漫画は読むし、私も今でも読む。
子どもだった頃、周りの大人がたまたま漫画を読んでいなかったから、そう思っていただけだ。


大人になったら、「自分でなんでもできるようになる」と思っていたけれど、
実際そんなことはなかった。
子どもの頃よりはできることは増えるけれど、
「なんでも」はできない。
大人になってもできないことは多々あって、
自分で解決できないことも多い。


自分の実力を知るというか、自分のキャパを知るというか、
だんだんあきらめやすくなるのは、大人になってからだと思う。
あきらめ上手。切り替えが早い。そんな風にも言える。


体力やエネルギーが減ってきて、全力投球できなくなってきたというのもある。
体力、エネルギーの配分にこだわるようになってきたのは、大人になってからというより、年齢を重ねてきてからと言ったほうがいいかもしれない。


「夢見る力は子どものほうが強い」と私は思っていて、もちろん大人も夢を見るけれど、子どもにはかなわないなと。


いろいろなことを知る前のほうが、無茶苦茶なことができたりするもので、
大人になって、いろいろなことを知ったあとだと、なにもできなかったり、傍観者になってしまうことが多い。もちろん個人差はある。


大人の定義は人それぞれだけれど、まぁ大人になるには時間がかかるものだと私は思っていて、またゆっくり大人になっていいんじゃないかと。大人になって得るものが多い反面、失うものも多いように思う。もっとも、大人になっても「子どものよさ」を持ち続けている人もいるので、一概には言えないか。「いつまでも子どもっぽい」というのは一般的に褒め言葉にはならないけれども。


子どもの頃、「早く大人になりたい」みたいなことを思っていたような気がする。でも、大人になるには想像以上に時間がかかって、今でもたいした大人になれてないな、と瞼(まぶた)を閉じて、考えてしまう。


災害時の備蓄品とか避難するときに必要なものについて考えはじめた

昨日の記事でも書いたのだけれど、
komoko.hatenablog.com
非常食のローリングストックを始めていて、
こんな本も読んでみた。

こちらはオレンジページという雑誌から出ている本なので、分かりやすく、雑誌を眺める感じで読めるのでよかった。本なので雑誌よりも小さいし、薄いので、これくらいなら家にあっても邪魔にならないように思う。
本の終わり(巻末)には「家に備えておくべきものリスト」があって、これはとても参考になる。

災害時の備蓄品
□懐中電灯(両手があくヘッドライトやランタンもあると◎)
□携帯ラジオ(予備の電池もいっしょに。電池のいらない手動式もある)
□カセットコンロ(電気やガスが止まってしまい、火元が確保できなくなった場合に備えて)
□ガスボンベ(12本程度、最低でも6本以上、カセットコンロと同じメーカーのものを選んで)
□携帯トイレ(断水した場合、トイレを流すことができなくなるので必須)
□給水タンク(注ぎ口が広めのものがおすすめ)
ローリングストックで! 防災にそなえるレシピ (オレンジページブックス)より

この中で私の場合、カセットコンロはもう古くて長いこと使っていないので、そろそろ新しいものを買ったほうがいいと思っている。

そして、携帯トイレも全然頭になかったので、買っておこうと思う。

ほかにも家に備えておくべきものリストには食料や日用品、健康・衛生用品などのリストや、非常時持ち出し袋に入れるものリストも記載されている。

避難するときに必要なもの
□ヘッドライト(懐中電灯)
□軍手
□笛(家の中や避難中に閉じこめられたときに使用)
□マスク(災害時は粉じんが舞っている場合もあるので必須。感染症予防にも)
□広域避難地図
□家族の写真
□紙とペン
□現金(公衆電話や自動販売機用に十円や百円硬貨も)
□家の鍵
□身分証のコピー
□家族の連絡先メモ
□ハンカチ
□ポケットティッシュ
□ウェットティッシュ
□食べ物(何が食べられるかわからないのでバリエーションをつけて。甘い、しょっぱい、酸っぱい、固形、柔らかい、ゼリー状など)
□飲み物(水や野菜ジュースなど)
□常備薬
ローリングストックで! 防災にそなえるレシピ (オレンジページブックス)より

この中にはないけれど、携帯電話と充電器は必須だし、持ち出し袋は両手が自由になるリュックがいいだろうし、避難場所のこととか、まぁいろいろ考え始めてます。

普段食べ慣れているものを非常食として買い置きしておく

非常食として段ボールにいろいろ詰めておいたのだけれど、
気がつくと賞味期限が切れてた!
しかもかなり前に賞味期限が切れていて、とてもじゃないけれど、食べる勇気はない!ということがあった。


読んだ本。

この本で紹介されているのが、

ローリングストック法

これは、災害時を想定して備蓄していた食べ物を、目に見えるところにストック(備蓄)して、月に何度か使ってまた次を買い足してストックするという、備蓄の循環(ローリング)方法です。
あるものでまかなう生活 (日本経済新聞出版)より

ここで大事なのは、普段食べ慣れているものを備蓄品にすること。いつもの食事に使いやすくなりますし、いざ災害というときには、普段食べているものがあると気持ちが落ち着くからです。
具体的には、賞味期限が1年くらいの備蓄食品を「家族の人数分×3~7日分」、食品庫や食器棚の下などに入れておき、月に何度か普段の食事で使っていきます。
あるものでまかなう生活 (日本経済新聞出版)より


この本の中では「賞味期限が1年くらいの備蓄食品」とあったけれど、まぁ1年なくてもいいかなと。半年とかそういうものでも。とにかく循環(ローリング)させる、買ったものをちゃんと食べることが大事だと思う。

ローリングストック法のいいところは、しまい込まないことで賞味期限や在庫数を把握しやすいことです。非常食でしか食べないようなものではなく、日ごろ食べ慣れているものなので、定期的に食べて在庫が循環していきます。結果、うっかり食べ忘れてダメにすることがありません。
あるものでまかなう生活 (日本経済新聞出版)より


定期的に食べるということで、毎月決まった日(例えば毎月1日とか)をその買い置きしたものを食べる日にしてもいいし、単純に忙しくて買い物に行けないとか、そういうときに買い置きしたものを食べてもいいし、なによりわざわざ「非常食」と銘打って売られているものを買わなくていいので、気も楽だ。



話は変わるが、

食品業界には多くの商慣習が存在します。法律でもなんでもないのですが、それに従わなければ取引が難しくなるというもので、食品ロスの原因のひとつになっています。
まず挙げられるのが「欠品ペナルティ」です。食品メーカーの製品が欠品して(発注数分が揃わなくて)納品できないと、コンビニやスーパー、百貨店などの小売り店に対し、メーカーは、欠品ペナルティと称される罰金(欠品粗利保証金)を、店舗ごとに払わないといけないのです。罰金どころか、悪くすれば取引停止となります。
あるものでまかなう生活 (日本経済新聞出版)より

このことをこの本を読んで初めて知った。

売店としては、売れる分だけ最大限に売ったほうが売り上げが大きくなる。欠品で商品棚を空けてしまうと、お客さんからのクレームにつながる恐れがあり、最悪、顧客を失う可能性がある。だから、欠品はペナルティに値するーという論理です。
あるものでまかなう生活 (日本経済新聞出版)より

確かに品揃えが悪い店にはお客さんは行かないだろう。スーパーは、営業中に品出しをしている光景をよく見かける。とにかく棚が空いている状態はダメだ。どんどん並べておかないと、というような。


その一方で、売れ残って捨てる(廃棄している)ものも多いのだろうな、と。


自分のうちのなかでは、とにかく食べずに捨てる食材がないようにしたいと思っているのだけれど、つい最近、買い置きの非常食を賞味期限切れで捨てなくてはいけないことになって、ショックを受けた。非常食であっても、それはちゃんと食べられるもの。食べられるうちに食べておくべきだった。今思うに段ボールに詰めてしまったのも失敗だったと思う。もう非常食を段ボールに詰めることはしない。


食べ慣れたものがたくさんあるほうが安心だし、食べ慣れたものなら、賞味期限が切れる前にちゃんと食べると思う。



食品ロスや最後まで使い切るということに興味がある人におすすめの本です。


心が穏やかに凪ぐ時間を持つようにする

読んだ本からの引用。

人間は、あれやこれやのはかない感情を経験したときではなく、自分の感情はすべて束の間のものであることを理解し、そうした感情を渇愛することをやめたとき初めて、苦しみから解放される。それが仏教で瞑想の修練を積む目的だ。瞑想するときには、自分の心身を念入りに観察し、自分の感情のすべてが絶え間なく沸き起こっては消えていくのを目の当たりにし、そうした感情を追い求めるのがいかに無意味かを悟るものとされている。
サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福より

ああ、確かにそうだなぁと。ひとつの感情というのは、そう長く続くものではなく、例えば「怒り」という感情も、いつかはおさまる。再び「怒り」の感情が「沸き起こる」場合、それは「思い出して怒っている」つまり「思い出したことによる怒り」に分類されるもので、最初の「怒り」とは厳密には違う。最初の「怒り」はだいたいにおいて他者が引き金となった「怒り」で、2度目からは自分の記憶、思い出したことが引き金になる「怒り」と言える。「怒り」は、自分が傷つけられた(あるいは軽んじられた)ことによる怒りであることが多いのではないだろうか。


最近は、よく「つらい」という感情について考えるのだけれど、この「つらい」という感情も一時的な一過性のものでありながら、海の波のように、何度も引いては押し寄せる類(たぐい)のもので、なかなか凪(な)ぐ間がない。つらいということを意識すれば意識するほど、その沼にはまっていく。このつらさは、どうやったらなくなるのか、どうしたらつらさから解放されるのか、考えたりするのだけれど、今のところ、具体的な策は見当たらない。ただ「つらい」ことにこだわっている自分は、かなりシリアスモードで、自己憐憫、もしくは自罰的(もしくは他罰的)になっている場合が多いように思う。

感情の追及をやめると、心は緊張が解け、澄み渡り、満足する。喜びや怒り、退屈、情欲など、ありとあらゆる感情が現れては消えることを繰り返すが、特定の感情を渇愛するのをやめさえすれば、どんな感情もあるがままに受け入れられるようになる。ああだったかもしれない、こうだったかもしれないなどという空想をやめて、今この瞬間を生きることができるようになるのだ。
サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福より


さまざまな感情、特に囚われている感情については、私は記憶に起因するものがほとんどだと思っている。
つらい出来事、つらい体験、そういったものが記憶としてしつこく居座り、感情を揺さぶる。悪い意味で揺さぶられ、翻弄され、困憊させられる。その記憶というのは、簡単には忘れられない記憶なのだと思う。はてさて困ったものだ。

仏教をはじめとする多くの伝統的な哲学や宗教では、幸せへのカギは真の自分を知る、すなわち自分が本当は何者なのか、あるいは何であるのかを理解することだとされる。たいていの人は、自分の感情や思考、好き嫌いと自分自身を混同している。彼らは怒りを感じると、「私は怒っている。これは私の怒りだ」と考える。その結果、ある種の感情を避け、ある種の感情を追い求めることに人生を費やす。感情は自分とは別のもので、特定の感情を執拗に追い求めても、不幸にとらわれるだけであることに、彼らはけっして気づかない。
サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福より

なるほど、「感情は自分とは別のもの」これを読んで、目から鱗が落ちた。
感情は感情にすぎない
感情に振り回されたくないと常々思っていたけれど、感情は一時的一過性のものなのだから、そう執拗にこだわらなくていいのではないか。怒りは怒り。怒らないというのはなかなか難しいことだろう。怒ってもいいけど、囚われない。振り回されない。感情が消えていくのを待つ。心が穏やかに凪ぐ時間を持つようにする。それが瞑想と言われるものなのかもしれない。



読んだ本。でもまだ一度読んだくらいでは頭に入ってこない。
何度でも丁寧に読んでみようと思う。



日々発見

最近また忙しくなってブログを書けないでいたのだけれど、
書き残しておきたいことがあったので、書いてみる。


書き残したいこと。それは「日々発見」ということ。


実は日々改善という言葉が好きなのだけれど、発見もいいなと。


知らなかったことを知るのは面白い、それと同様なのだと思う。


ある人の言動に長いことモヤモヤしていたのだけれど、実はその言動には理由がちゃんとあってその理由をふと発見して納得という出来事があった。(個人的なことなのでその言動や理由は具体的は書かない)


人の言動は表面的な部分しか見えないし、その表面すらじっくりと観察などしないし、実際直感や先入観を持って判断してしまっている。


一方で、最近ミステリーをよく読んだり、ミステリードラマを見るにつけ、よく観察することの面白さに気づいたわけで。
観察による発見
今まで漫然と人やモノを見ていた自分に気づいて、いや、漫然としか見れないくらい疲れてたんだというのもある。あるいは、気づいていてもそれ以上考えないようにフタをしていた感もあるし、要するにめんどくさかったんだと思う。


今はめんどくさいよりも観察が面白いが勝っている。観察もまた「自分のメガネ」で見ているから、必ずしも客観的とは言えないのだけれど、でもまずは自分の感覚で感じとるのは大事だと思う。自分で考えることも


今まで表面的な部分しか見てなくて、しかもパッと見で判断して、誤解していたことも多かったんじゃないかと思う。いや、相当多かったにちがいない。「パッと見で判断してしまうのは怖い」と今は思っている。


願わくば、今はしばらく観察できるくらいの余裕がほしい。日々発見できるくらいの時間的余裕、心の余裕がほしい。



涙もろくなっている

最近涙もろくなっている。
ふいに様々なことがフラッシュバックして泣きそうになることもあるし、映画やドラマを見ていて泣いてしまうこともある。
夢見が悪いことも最近多くて、またその夢(悪夢)が黒カビのように記憶に残り続けて、たちが悪い。思い出して泣いてしまう。


泣くとストレスが減るというか、少し楽になるというのはあると思う。
泣くのは悪いことではない。周りに人がいなくて、ひとり泣くのは良いことなんじゃないだろうか。誰かに迷惑をかけることでもないわけだし。


コロナ禍だし、ストレスはなかなか減らない。なので、涙活と言われるように、映画やドラマを見て、積極的に涙を流すのもいいなと思っている。
ちなみに今amazonプライムビデオで見ているドラマは

中国ドラマだけれど、泣いてしまう。(どういうシーンで泣いてしまうかは、ネタバレになるので書かない)


日誌。箇条書きで、その日あったことを2つか3つ書く。

何年か前から日誌をつけているのだけれど(以前、ブログでこのことは書いた気がする)、
この日誌は、日記より気楽で良い。
箇条書きで、その日あったことを2つか3つ書く。それだけ。
2つか3つだから、おのずと「記録しておきたいこと」がピックアップされることになる。
日誌は5年書けるものを使っている。


例えばこういう感じの ↓

5年日記を日誌として使ってもいいかもしれない。
こういうの ↓

1年前、あるいは2年前の今日どういうことがあったか、すぐわかるので便利だ。
例えば1年前の今日、電気ポットを買ったとか、ケータイを変えたとか、もちろん冠婚葬祭も記録している。


記憶はあてにならない。
記録は役に立つ。
寝る前に日誌を書く習慣を続けたい。