ゆっくりと、見るということ。

いそがしいということに逃げて、
いろいろなものを見ているようで、見ていなかった、そんな気がする。


コロナ禍ということもあり、家にこもりがちで、
季節の移ろいも、「なにかしらの画面」に映ったものを一瞬見て、知る。
まぁ知ったところで、特に感慨もなかったりする。
というより、感じる余裕もなかったのがコロナ前から数年続いていた。


さて、価値観というのは、ふとしたことで変わるもので、
我ながら驚いた。


ずっとかけられていた呪いが解けたというか、
自分の価値観ではないものを自分の価値観だと信じこんで、
自分で自分を縛りつけていたことに気づいたというか。


「これはこうでなければいけない」というような価値観の縛りが緩んで、
少し息苦しさがなくなったように思う。


今は、いろいろなものを、ゆっくりと見たい。
「これはこうでなければいけない」というような価値観の縛りで
なんだかんだと生き急いでいたので、
ここらでペースをおとそうと思う。


昔読んだ本を
最近ゆっくり読み返して、
発見したこと、気づいたことに涙が出たり。
今したいのは、そういうことだ。


ゆっくりと、見るというのが
今いちばんしたいことかもしれない。



作り上げられた記憶、曖昧な記憶に振り回されるということ

記憶というのは、自分だけのもので、他の人がどうこう操作できるものではない。

とはいえ、記憶は「絶対」ではないことを忘れないために書き残しておこう。


最近よく本を読んでいる。
本を読み終わって1週間ほど経ったところで、もう一度確認したい箇所が出てきた。
気になる文章が脳内で耐久盆踊り。
あの文章はどういう流れで出てきたんだろうと、再び本をめくることに。


が、見つからない。
まるで氷がとけて、水に、そして蒸発してしまったかのように見当たらない。


わたしの記憶違いだったのだろうか。
探せど探せど、見つからない。


最近は並行で数冊本を読んでいるので、もしかしたら、他の本だったのかもしれない。
ここ最近読んだ本たちをめくってはめくって、探す探す探す。


読んだ本の中の文章。もう一度確認したいと、探すという行為に憑りつかれる
(過集中の傾向は自覚がある)


憑りつかれつつも、AパートとBパートの間にCMが入るように、ふと我にかえることもある。
「これだけ探して見つからないということは、あの文章は「本を読みながら作りだした自分の記憶」なのかもしれない。
本の中に実際に書かれていたわけではないのかも…と。



今回は、あの文章はおそらく私があとから勝手に作りだした文章で、それをあたかもその本の中に書いてあったかのように思いこんでいて、うーん、これって、対人に関しても言えることだなぁと。


つまり、あの人がこう言った。こんなことを言った。あんなことを言った…。それは、録音でもしていないかぎり、自分が聞いた声の記憶でしかなく、もしかしたら、その記憶したものは間違っているかもしれない。実はそういう風には言っていなかったとか、相手の言葉のほんの一部しか覚えていなかったり、拡大解釈したり、曲げて解釈したり。それをあたかもそうその人が言ったと、記憶してしまう…。こわいな。


作り上げられた記憶、曖昧な記憶に振り回されることは、実は多い。
記憶違いを認めるのは、なかなか簡単なことではないようで、
自分は正しい、間違っていないという自信、プライドと関係しているかもしれない。


人の数だけ記憶があるのだから、ひとつの過去に対して、見解が嚙み合わないことがあるのは、なるほど当たり前かもしれない。
相手も自分と同じように記憶しているとは限らない。


さて、話を戻して、ここで書きたかったのは、
記憶というのは、バイアスがかかっていたり、曖昧だったりするで、過信するのはよくないということ。
記憶は時に棘のように深く深く突き刺さって、まわりを化膿させたりするから、厄介なものだ。
まぁこのこと(棘のように刺さること)については、書けたら書きたいテーマではあるけれど。
長くなったので、このへんで。



余力、あそびを残すということ

いやはや、気づくと2月最終日。
月に2~3回は更新したいとか思ってたのだけれど、
実際は仕事ばかりしていて、ブログは放置状態に。


とりあえず、まだ2月だし、書きたいこともあったし、書いてみようかと。


で、タイトル。『余力、あそびを残すということ』
「余力、あそびは大事だ」と思ったので書いてみる。
車のハンドルに「あそび」の部分があるように、あそびは必要。


ここ数年、仕事を引き受けすぎて、パンパンになって、
プレッシャーとかストレスで倒れそうになって、
それは今年は全力で回避したいなと。


いや、そもそも、この「全力」というのがよくないと気づいたわけで、
がんばるのもいいけど、余力を残すようにしないと!
結局は「自分で自分の首をしめることになるんだよ」と
自分に言い聞かせてる。


「考え方を変える」というか、「考え方(やり方)を変えないといけない」と気づいたのは大きな失敗をしたから。
今でも思い出せば頭を掻きむしりたくなるような大きな失敗をした。


大きな失敗をしてから、考え方(やり方)を変えたって、もう遅いと言えば遅いのだけれど、
それでも、失敗を繰り返さないためにも、考え方を変えなきゃいけないんだと思う。


そして、考え方(やり方)を変えたからって、うまくいくとは限らないというのも
自分に言い聞かせている。
なぜなら、考え方(やり方)を変えたら、きっとうまくいくだろうと、期待しがちだから。


期待はしない。
うまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない。
うまくいくかどうかは、やってみないとわからない。


とにかくやってみるしか。
自分の手持ちのカード(スキル)が少ないことを自覚して、
手持ちのカード(スキル)を地道に増やし、強くしていくしかない。


仕事に集中するのもよいけれど、
自分のメンテもしよう。
そのために余力は残しておこうと。
余力がないと、ホント、なにもできないね。


余力を残すという発想がなかったここ数年。
あそびという概念もなかったかもしれない。


というわけで(どういうわけで?)いま絶賛リピートしているのがこちら。

www.youtube.com


昨年までだったら、「余力を残す気はなかった」けれど、今年は「余力を残す」方向で。

2022年2月末現在18巻まで出ていますが、おもしろいです。



自分の価値観を否定されて、どう思ったか。

最近、自分の価値観を真っ向から否定されることがあった。
いやはや、びっくりというか、ムッとなってしまった。
そんなに強い主張をしたつもりはないけれど、「私だったら~」と言うフレーズから始まるのは、十分主張になるのだな、とあとから気づいて自分に対して嗤(わら)ってしまった。


価値観を否定され、対立関係が生じてしまい、ここで「いつもの私」がpause(一時停止)ボタンを押した。そして退却。


対立関係は苦手だ。対立の舞台ができてしまった時点で、対立から衝突に至るのが嫌で、対立から去るのが「いつもの私」だ。


誰かに自分の価値観を否定されるのは面白いことではない。
でも反論というか、自分の価値観を押し付けようという気はさらさらなくて、仮に自分の価値観をゴリ押ししたところで、よい結果になるとは限らないと思ってしまう。
「これが自分の価値観なんだよね」「今更変えられない」などと頑固、融通が利かないそういう自分になりたくなかったのだと思う。


自分の価値観を否定する価値観もあるんだと思うと、そんなにびっくりすることもムッとなることもなかったわけで、
やっぱり自分の価値観を絶対視していたんだなと、あとになって思うわけで。


価値観や考え方がぶつかって、それですぐに去る(退却)するのも、本当はよくないのかもしれない。
でも、やっぱりあの場面で自分の価値観をゴリ押しするのはどうかと今でも思うし、相手の価値観もよくよく考えたらわからないこともない。
私も自分の価値観をわかってくれると思っていたのかもしれない。
が、実際にはわかってもらえず、悔しかったのかもしれない。

「話せばわかる」というのはよく聞くフレーズだけれど、話して「価値観をわかってくれる」と「支持してくれる」というのは必ずしも=(イコール)ではない。つまり、その人の価値観はわかるけれども支持はしないということは往々にしてあるものだと、まぁそういうことだ。わかってくれると期待しないほうがいいということかもしれない。


さて、長くなってきたので、そろそろまとめ。
自分の価値観を否定されてどう思ったか。価値観を否定されて、結局のところ、それでも自分の価値観は変わらないと思ったのと、でも融通を利かせるのは大事だなと。否定される経験をしたことで否定される耐性がちょっとはついたかと思うとまぁ悪くはなかったかと。



2022年の抱負

2022年になった。
朝見た月は、低く赤くか細く今にも消え入りそうだった。そんな月を見れたのはラッキーだったのかも。


元日の朝はとりわけ静かだ。


2022年は
無理をしない。
落ち着いた毎日を過ごす。
とにかく睡眠を取るようにする。
これを抱負にしよう。


そもそも抱負とはなんぞや?と思ったので調べてみたら、
抱負とは「心の中に持っている計画・決意」のことらしい。ふむふむ。
心の中に持っている計画・決意だから、その人の自由でいいわけだ。
自由だから、壮大な(?)抱負じゃなくても全然OKと考えたら気が楽になる。


それに抱負は「心の中で持っている計画・決意」だから、わざわざブログに書かなくてもいいのかなとも思うけれど、
とりあえず書き残しておくのはいいことだ。とにかく書いておかないとすぐに忘れてしまうから。
忘れてもいいように、忘れたらいつでも読みかえせるように残しておくくらいの気持ちで、ちょうどいい。


落ち着いた穏やかな一年になりますように。



2021年をふりかえって

久しぶりすぎる更新。
どうやら100日以上更新していなかったようだ。
年末。
晦日
一体いつの間に。


さて、2021年最後に更新しておこう。
2021年をふりかえってみようかと。


と、ここまでキーを打って、ふりかえるもなにも、仕事しかしていなかったことに気づく。
映画を見に行くこともなく、旅行に行くこともなく、外食もまったくといっていいほどしていない。
コロナ禍だったから、といえばそれまでなのだけれど。


仕事は、我ながらかなり無理をしたと思う。
吐き気に襲われるほどの頭痛は初めてだった。
頭痛は疲労や寝不足、ストレス、プレッシャーが原因のようで、
体が悲鳴をあげていたのだと思う。
思わぬケガで通院もした。いまも痛めた個所が痛い。


最近はとにかく睡眠をとるようにしているけれど、
ストレスやプレッシャーはなくならない。
仕事は楽ではない。
楽ではないけれど、仕事をしないわけにはいかない。
食べることと寝ることと仕事、その繰り返しが2021年で、
こんなに本も読まなかった年もないのではないだろうか。


本を読む余裕が脳になくて、
とりあえず音楽は気分高揚のためによく聞いたかもしれない。


さて、2021年をふりかえったところで、2022年はどうしよう。
とにかく無理はしないようにしよう。
2022年は落ち着いた日々を過ごしたい。



真綿宇宙服状態からの脱出

頭は使っていないとどんどん衰えていく。
毎日同じようなことの繰り返しで、新しい刺激がなかったりで、真綿の宇宙服に全身を包まれているようなそんな感覚を覚えることがここのところ(2020年頃から)多かった。まぁ、コロナ禍で外出がままならなかったり、人と直接会うのも減ったりで、仕方がないといえば、仕方がない。


そういう状態(真綿宇宙服状態)は、正直言って窮屈で、つらさすらある。まだまだ外出がままならないにせよ、どんどん新しいことを学んだり、何かについて深く考えたりしようと思った。(最近は語学に加えて、世界史も勉強している)


そして、大事なのは記録だ。メモすることだ。
様々なものを見て、聞いて、気づいたことがあっても、それを記録しないとすぐに忘れてしまう。
記録しておけば、後から見返して思い出すことができる。
もっと様々なことを記録しておこうと、新年の抱負のごとく、今思っている。


記録する作業をめんどくさいと思うのは、生まれつきの性格的なものかもしれないし、単純に疲れているせいかもしれない。
でも、疲れているからめんどくさいからと言うことで一切記録しないのは、大事なことをドブに捨てているようなものかもしれない、そう思うようになった。


注意力と記憶力。この2つの力についてこれから特に力を入れていきたいと思っている。
注意力は、訓練しないとなかなか向上しないものだ。意識的に物事を観察する。観察して「気づく」、これは大事なことだと思う。
記憶力も同様に訓練しないとなかなか向上しない類のものだが、記憶力については記録するメモすると言うことで補うことができるのではないだろうか。気づいたことはどんどんメモしておきたい。


真綿宇宙服状態からの脱出。
時間を有効に使っていきたい。