モヤったことを口に出すということ

本音をすぐ口にするのは好きではない。
「なんでも思ったことを言えばいいってものではない」と思っているのはまぁ今も変わらない。


しかしながら、仕事でモヤモヤさせられることがしばしばあって、
そういうときは、しばらく考えたうえで、ことばを選んで、口にするようにしている。


口にすることばは、かなりの爆弾発言になったりするのだけれど、
モヤモヤしたこと、略して「モヤったこと」を溜めこむのは正直ストレスだ。


先日もモヤったことがあったので、
周囲の状況やタイミングを見計らったうえで、
モヤったことを口に出した。


「それは知らなかった」と言う人もいれば、
「たいへんだったね」「それはモヤるよね」という同情的な反応の人も。


わたしがこういうモヤモヤしたことを抱えたまま仕事をしたくないというのをわかってくれる人もいて、
対策できるのなら対策した方がいいと言ってくれた。




ぶっちゃけ、モヤったことが解決したわけではない。
解決したわけではないが、ことばにして周囲に伝えたことで、
「モヤったことがあったこと」「解決したほうがいいこと」の共有はできたように思う。
もしかしたら、次は我が身、自分がモヤる番になるかもしれないと思った人もいたかもしれない。


しかしながら、中には、わたしがモヤったことは「よくあること」で、そんなに大げさにとらえるようなものでもない、というスタンスの人もいた。


キャパが大きいというか、経験値やレベルがわたしとはちがうのだろう。
それはそれで、そういう反応があってもまぁ当然かもしれない。


「大げさにとらえるようなものでもない」と言われても、でも当の本人(わたし)がモヤったのは事実なのだから、
それを言語化するのは本人の自由だろう。


モヤったことを誰かにわかってもらえた、それだけで精神的に楽になるというのはある。


モヤったとき、咄嗟に感情的に口にするのではなく、
しばらく考えて、ことばにするようにしている。


まぁしばらく考えても、うまくことばにできないときもあるのだけれど、
それはそれで、仕方ないと思っている。
多少のあきらめモードで、それでも進んでいくしかないなぁと。


長くなったので、このへんで。


隣の芝がどうでもよくなるとき

「隣の芝がどうでもよくなるとき」
というタイトルで書いてみる。


隣の芝が青く見えることもあるけれど、
最近は「自分の芝生」を青くしたいというか、「どんどん経験値を増やしていきたい」という気持ちが強くなってきて、
がんがん行こうぜモードになると、はっきり言って、隣の芝生はどうでもよくなる。


人は人、自分は自分。
人の目をいちいち気にしても仕方ないし、
自分のやり方が他の人にとって迷惑になるとか、なにか問題が起きるとか、
そういうのでなければ、
自分のやり方でやらせてもらう。
大切なのは結果が残せるか。どこまで設定したゴールに近づけるかだと、そう思うようになった。
もちろん、職種にもよるけれど、
私はとにかく「結果を残したい」と思う。設定したゴールに近づきたいし、そのために手を尽くしたいと思う。


もちろん、過程では大変だし、心身ボロボロになっていたりする。


しかしながら、大変さを周囲にアピールするのは好きではなくて、
大変でも平気なフリをすることが多い。
これはかなりストレスが溜まることで、
心身ともに泥沼になるので要注意だ。


なので、最近は暴風雨レベルの大変なことに遭遇したら「どうにかして逃げられないか」そっちに頭を使うようにしている。
「逃げる」がネガティブな響きなら、「負担を減らす」でもいい。
「どうにかして自分にかかる負担を減らせないか」
こちらのほうがポジティブなニュアンスになるかもしれない。


「あ、もう無理だ」と思ったら、そのときは全力で逃げる方法を考える。
潰される前に逃げる。
あるいは、自分にかかる負担を減らす方法を考える。
自分の身は自分で守らないと。


仕事だけでなく、人生一般においても、
負担になることは極力回避で。
苦手なこと、苦手な人には極力近寄らない。
年もとってきたし、自分をケアすることのほうが大事で、
無理をしないことが周囲に迷惑をかけなくて済むというのもわかってきたし、
倒れるまでやらないといけないことなんてない。
そう思うようになった。
思うに、昔は無理、無茶をしていたなぁと。


無理、無茶はしないけれど、
やりたいことはやりたい。
やりたいことをやっているとき、
隣の芝はどうでもよくなる。

というわけで、今日はこのへんで。




隣の芝生は青く見えるけど、実際言わないだけで大変だったりするんだろう。

月末になるとブログを更新してたのだけれど、
4月5月6月7月と、4か月まったく更新してなくて、
ここまで長い間更新していなかったのは、はじめてかも(たぶん)。

「書いて残したいことがあったら、書く」というスタンスは今も昔も変わってない。
それが、気楽でいいよね。


で、タイトル。
「隣の芝生は青く見えるけど、実際言わないだけで大変だったりするんだろう。」
言いたいことはここに集約されているのだけれど、
もう少し書くことにする。


うらやましいとか、憧れるとか、そういう気持ちは自然発生的なものだ。
それが嫉妬とか妬(ねた)ましいとか、そういうものになると、
とたんに苦しくなるから、要注意だ。


どうしても欲しいものがあって、でも得られなくて、
自分が持っているものを持っている人がうらやましくて、妬ましくて、嫉妬。


嫉妬したところで、自分が情けなくなるだけで、
自分がどれだけ足りない人間かを再確認して、
なんというか、努力して、あれこれがんばって、
でも、努力だけではどうにもならないことがあるのだ。


隣の芝は青く見える。
うん。そうだね。これはもうしょうがない。


でも、最近「隣の芝を管理維持するのも、実は大変だったりするんだろうな」と思うことがあった。
個人的なことでもあるので具体的には書けないけれど、
うらやましいような地位や評判を聞く人であっても、
その人がそれを維持するために、周囲の想像以上のことをしているのだということ。
地位があるということは、責任があるということ。「知らなかった」では済まされず、突き上げを食らうこともあるということ。
いやはや、大変だな、と。


大変なことがあってもそれを他の人には言わないので、
他の人は内情(実情)を知ることもなくて、
表面だけを見て、その人の芝生を判断しているという…。


表面だけを見て、判断してしまうのは、これまた仕方ないことだと思う。
いきなり誰にでも本音をさらけだすのは、至難の業だと思うし、
逆に、いつも本音をぶつけて憚(はばか)らないのも、無粋でデリカシーがないと思うし、
本音が時折見え隠れするくらいが、人間らしくていいなと思ったりする。


隣の芝生が青く見えて、落ち込んだり、不安になったりすることもあるけれど、
まぁ隣は隣で大変なこともあるんだろうな、と
下の本を読みながら思ったわけで、

長くなったので、今日はこのへんで。



物語を紡ぐ人になりたかった

「最終回を見るまでは死ねない」と思ったことはないだろうか。
それは連載している漫画だったり、シリーズものの小説だったりするのだけれど。


続きが気になって気になって仕方がない作品があるというのは幸せなことだと思う。
一体どういう結末になるのか(終わってほしくないけれど)結末を見届けるまでは死ねないと思う。


好きな世界観は、子どもの頃からほとんど変わっていないように思う。
自分の世界観を表現して、物語を紡ぐ人になりたかった。
誰かに読んでもらいたかった。
つづきが読みたいと言われるような物語を紡ぎたかった。



『哲学の先生と人生の話をしよう』を読んで考えたプラス志向のことなど。

何か大きな怪我をしたり大きな病気にかかったりすると、そのことを考えるために多大なエネルギーを使わねばなりません。人間の精神エネルギーには一定の量があり、どこかが大量にエネルギーを消費すると、他の部分には多くのエネルギーを使うことはできなくなります。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


まさしく昨年(2021年)の秋がそうだった。思いもよらない大怪我。
仕事に行けなくなるんじゃないかと思うくらいの怪我だった。
怪我や怪我の治療のことで頭はいっぱいになり、寝ていても怪我の痛みに悶絶していた。
上記の本にあるように精神エネルギーの大部分を消費させられ、ポジティブなことが全く考えられない状態だった。


と、こんな風に書けるのも、「今」だから書けるわけで、
「怪我をした当時」はまったくもって「余裕」は皆無だった。



プラス志向とは?

プラス志向は様々なことを考えずに済ますことによって可能になります。世の中に確実なことがありえない以上、何ごともよい方向で考えるプラス志向というのは信仰でしかありえません。そして、現実に起こる様々な事柄は、この信仰を揺るがすものです。当たり前です。物事は悪い方向に向かうこともあるからです。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


プラス志向は様々なことを考えずに済ますことによって可能になります。
この一文に「確かに」と腑に落ちる自分がいて、
プラス志向、あるいは楽観的(ポジティブ)でいることは、「見たくないものを見ないでいること」で可能になると、言えなくもないかな、と。

それにもかかわらずプラス志向を維持するには、悪い方向に向かっている物事から目をそらさなばなりません。そうやって眼をそらしてはじめて、何ごともよい方向に進んでいると考えるプラス志向が可能になる。つまり、多くの事柄を考えないことによってこそ、人はプラス志向でいられる。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


様々なものが目に入り、それらすべてについて逐一考え、感じ、追及すると脳はパンクしてしまうと思う。
人は見たいものを見、無意識に選択して見ている。
同じ風景であっても、人が見ているものは違う。
ある人は桜の花をひたすら眺め、
ある人は散った桜の花びらを見、その行方を考えたりする。
ある人はどうやったらきれいな写真が撮れるかばかり考え、
ある人は桜の木ごとに違う花の色が気になり、
まぁ人それぞれ見ているものは違っていたりする。


プラス志向は、今よりよりよい方向、ゴールへ向かうことを良しとする志向だと思う。
それはそれで、わるいことではない。
しかしながら、がむしゃらにゴールを目指すがゆえに、切り捨てていくものも多いのではないだろうか。


なにもかもをキープしたままで、ゴールまでたどり着くというのは、なかなか難しいことのように思う。
いや「なにもかもキープしたままで、ゴールにたどり着く」ということも不可能ではないだろうけれど、
人によっては(個人の能力やキャパによっては)、
あきらめないといけないものをあきらめて(切り捨てて)、
あるいは、見ないようにして、ゴールに突き進むというケースもあるように思う。


見ればつらくなるものは極力見ないようにし、切り離し、
なにかに集中することで、平静を保つというのをわたし自身も繰り返してきた。

抑圧とエネルギー

しかし、ものを見ないということにもエネルギーが必要です。目に入ってしまうことを無理矢理に押しつぶして抑圧しなければならないからです。抑圧には大変なエネルギーが必要とされるというのもフロイトが言っていたことです。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


抑圧には大変なエネルギーが必要とされる
それはそうだろう。
人は見れば、やはり何かしら感じたり考えたりするもの。
だから、いっそ見ないようにすることを私の場合日常的にやっていたわけで、
「進んでいく」ためには、そうすることが必要で、
「進んでいく」ことでしか、自分の居場所を得られなかったというか、
自分の居場所のために「戦ってきた」みたいな、まぁそんな感じなんだと思う。


「見ないようにする」という抑圧の結果、平静を得られるというのは、若干小賢しい気もするが、
そうすることを無意識に選んでいたので、これも一種の生きるための術(すべ)なのかもしれない。

結論のようなもの

したがって次のような結論が導きだされます。プラス志向の人は、そもそもたくさんの事柄を考えないで済ましており、また、たくさんの事柄を考えないで済ますために多大なエネルギーを必要としているから、考えられる事柄が限定されている。ということは、プラス志向の人はあまりものを考えていないということになります。


なんでそこまでしてプラス志向を維持するのか?それは人それぞれでしょう。たとえば、そこまで無理をしなければ、自分に不利な環境では頑張って仕事をしてこれなかったとか、いろいろな理由が考えられます。いずれにせよ、そうしたプラス志向を維持することで、その人は多くのことを考えずにすませている。おそらく、周囲の人間のことを考えることに使われるエネルギーはわずかでしょう。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


周囲の人間のことを考える、これはものすごくエネルギーが必要なことだと思う。
自分のことでいっぱいいっぱいであれば、周りの人のことまで考える余裕がないのは仕方がないことだと思う。


「周りの人のことまで考えなさい」というのは、余裕がある人が言える言葉で、
余裕がなかったら、自分のことをどうにかすることで頭がいっぱいで、周りの人のことなど考えられない。


私の場合、本当に余裕がなくなると、どうしていいかわからず、思考停止状態になってしまう。
昨年、大怪我をしたとき、入院はしなかったものの、
通院しても痛みはひかず、痛みで眠れず、ひたすら痛み止めの薬にすがっていた。
一体いつまでこの痛みが続くのかと、自分が吐き出す愚痴に自分でうんざりしていた。


薬があれば、痛みでどんどん飲んでしまう。


痛みをどうにかしたくて、
薬の種類を変えては飲み続けた。
これは、やばいと思った。


薬に依存し、
病院をコロコロ変え、
ドクターショッピング状態になりそうで、
結局、病院に行くことも、薬を飲むこともやめた。


もう怪我のことを考えたくなかった。
もちろん、痛いのは、痛い。
でもどうにもならない。
怪我に精神的なエネルギーを奪われるのは、もうイヤで、
ついには、怪我について考えることをやめた。
今思うと、その時、なにも考えたくない状態(思考停止状態)だったように思う。



で、「今」。
怪我の痛みはなくなったわけではない。
でも精神的なエネルギーをべらぼうに搾取されるほどではない。


精神的な「余裕」というのは、「時間を作ることだ」と持論めいたものに至って、
とにかく無駄を省き、なにもしない時間を作るようにした。


なにもしない時間(予定がない時間)は、文字通り本当になにもしなくてもいい。ぼーっとしていていい。
精神的なエネルギーを使わなくてもいい時間は、寝ている時間以外にも必要だ。


「なにかをしなければいけない」という呪縛を断ち切った状態、その時間が大事だと思う。



プラス志向、それ自体は悪いことではないけれど、
プラス志向ゆえに、抑圧しているものや切り捨てているもののもあったりするということ。
また、プラス志向といったものを誰かに押し付けるものではないし、
志向や考え方は、まぁ人それぞれだよね、というスタンスで。

この本を読んで考えたことは他にもいろいろあるのだけれど、
長くなってしまったので、今日はこのへんで。



ゆっくりと、見るということ。

いそがしいということに逃げて、
いろいろなものを見ているようで、見ていなかった、そんな気がする。


コロナ禍ということもあり、家にこもりがちで、
季節の移ろいも、「なにかしらの画面」に映ったものを一瞬見て、知る。
まぁ知ったところで、特に感慨もなかったりする。
というより、感じる余裕もなかったのがコロナ前から数年続いていた。


さて、価値観というのは、ふとしたことで変わるもので、
我ながら驚いた。


ずっとかけられていた呪いが解けたというか、
自分の価値観ではないものを自分の価値観だと信じこんで、
自分で自分を縛りつけていたことに気づいたというか。


「これはこうでなければいけない」というような価値観の縛りが緩んで、
少し息苦しさがなくなったように思う。


今は、いろいろなものを、ゆっくりと見たい。
「これはこうでなければいけない」というような価値観の縛りで
なんだかんだと生き急いでいたので、
ここらでペースをおとそうと思う。


昔読んだ本を
最近ゆっくり読み返して、
発見したこと、気づいたことに涙が出たり。
今したいのは、そういうことだ。


ゆっくりと、見るというのが
今いちばんしたいことかもしれない。



作り上げられた記憶、曖昧な記憶に振り回されるということ

記憶というのは、自分だけのもので、他の人がどうこう操作できるものではない。

とはいえ、記憶は「絶対」ではないことを忘れないために書き残しておこう。


最近よく本を読んでいる。
本を読み終わって1週間ほど経ったところで、もう一度確認したい箇所が出てきた。
気になる文章が脳内で耐久盆踊り。
あの文章はどういう流れで出てきたんだろうと、再び本をめくることに。


が、見つからない。
まるで氷がとけて、水に、そして蒸発してしまったかのように見当たらない。


わたしの記憶違いだったのだろうか。
探せど探せど、見つからない。


最近は並行で数冊本を読んでいるので、もしかしたら、他の本だったのかもしれない。
ここ最近読んだ本たちをめくってはめくって、探す探す探す。


読んだ本の中の文章。もう一度確認したいと、探すという行為に憑りつかれる
(過集中の傾向は自覚がある)


憑りつかれつつも、AパートとBパートの間にCMが入るように、ふと我にかえることもある。
「これだけ探して見つからないということは、あの文章は「本を読みながら作りだした自分の記憶」なのかもしれない。
本の中に実際に書かれていたわけではないのかも…と。



今回は、あの文章はおそらく私があとから勝手に作りだした文章で、それをあたかもその本の中に書いてあったかのように思いこんでいて、うーん、これって、対人に関しても言えることだなぁと。


つまり、あの人がこう言った。こんなことを言った。あんなことを言った…。それは、録音でもしていないかぎり、自分が聞いた声の記憶でしかなく、もしかしたら、その記憶したものは間違っているかもしれない。実はそういう風には言っていなかったとか、相手の言葉のほんの一部しか覚えていなかったり、拡大解釈したり、曲げて解釈したり。それをあたかもそうその人が言ったと、記憶してしまう…。こわいな。


作り上げられた記憶、曖昧な記憶に振り回されることは、実は多い。
記憶違いを認めるのは、なかなか簡単なことではないようで、
自分は正しい、間違っていないという自信、プライドと関係しているかもしれない。


人の数だけ記憶があるのだから、ひとつの過去に対して、見解が嚙み合わないことがあるのは、なるほど当たり前かもしれない。
相手も自分と同じように記憶しているとは限らない。


さて、話を戻して、ここで書きたかったのは、
記憶というのは、バイアスがかかっていたり、曖昧だったりするで、過信するのはよくないということ。
記憶は時に棘のように深く深く突き刺さって、まわりを化膿させたりするから、厄介なものだ。
まぁこのこと(棘のように刺さること)については、書けたら書きたいテーマではあるけれど。
長くなったので、このへんで。