インプット、アウトプットするその間(あいだ)。

入力ばかりだと(MORI LOG ACADEMY)を読んで考えたことあれこれ。



入力ばかりだと (MORI LOG ACADEMY)より以下引用

観たり、聴いたり、読んだり、と自分の中に取り込むこと、すなわち「入力」を試したにすぎない。

そもそも、ブログがこんなに流行っているのも、この「出力」への渇望によるものではないか、と分析できる。でも、そのブログだって、出力しているようで、実は入力しかしていない人が散見される。

面白いものはないか、楽しいものはないか、と大勢が自分の外部を探している。自分の内部を探す人は少ない。


私の言葉を使って言えば、入力はすなわちインプットであり、出力がアウトプットである。
インプットとアウトプットのバランスは大事なように思う。
自分の場合インプットすればするほど、つまり、いろいろなことを経験し、感じれば感じるほど、それを文章にしてアウトプットしたくなる。



つまり、


インプット
  ↓
 自 分
  ↓
アウトプット


という流れなわけだが、

このアウトプットができないでいると非常に苦しいものになる。



こういうことが言いたい、こういうことを伝えたいというものがあるのに、
それを自分の中にいつまでも留めておくことは、
私にとって非常に体に悪い。体に悪いというより精神的によくない。


アウトプットするということは、
言いたいこと、伝えたいことに同意や共感を求めているのかもしれないし、
自分の考えていることに対してなんらかの反応が欲しいのかもしれない。

あるいは、
そんなことはどうでもよかったりすることもあるのだが。



私にとって文章に書き残しておくという行為そのものが、
精神的安定剤であり、落ち着く作業であったりするので、
つまり、とにかく書いておこうと、そう思うわけである。


文章にしてアップしたところで、
自分の言いたいこと、伝えたいことがうまく伝わっていないな、
と、もどかしく思うことはある。
しかしながら、受けとり方は、人それぞれ違うのが当然だし、
同意してよ、共感してよ、と求めるのは、
僭越すぎて好きではない。



結局のところ、どんな文章でも受け取り方は受け取る側の自由であると、
そういう風に考える。

そう考えると書く側としては楽だったりする。

受け取る側(読み手)はそれぞれ独自の感想を持つものだ。
そんなこと言っていないのに、という受け取り方をされたこともある。




あまり読み手を意識せずに好きなように書くこと、それがブログ等続くコツなのではないかとそう思ったりもする。



さて、
なにか楽しいものはないかと自分の外部を探し求める、その行為もわからないわけではない。
外の刺激は面白い。面白そうなことには脊髄反射的に反応したりもする。
が、私は元々流行等にあまり興味を持たない性質(たち)だったりする。
むしろ、私は自分の内部を探索、分析する方が面白かったりする。
一日の中でも刻々と変化する自分の感情の起伏すら客観的に見ると面白いように思う。


それこそ泣きながら眠った夜も
朝になればもう涙は止まっている。
そして普通に日常生活をこなそうと動き出せるのだから不思議だ。面白い。
なんでそこまで泣く必要があったのか、とあとからおかしくなるくらいだ。
深夜という時間帯は暗鬱にさせる魔物にとり憑かれやすくなるのかもしれない。


さて、
自分の中をあれこれ探索、分析してみたところで、本当の自分みたいなものが浮かび上がってくるようなそんな気がする。自分で自分を分析するのが好きだ。
本当の自分は、実はこんなやつなんじゃないだろうか、
本当はこんなことをしたいんじゃないんだろうか、と。
こんなことをしたら面白そうだと思ってるんじゃないの?と。


そして立ち止まったところで、
このままでいいのかな、これから先自分はどんな風にしたいのかな、と考えてみたりする。


自分のしたいことを先延ばしにする必要はないと思うし、
とにかくやってみることだと思う。


いつかいつか、では夢はいつまでたってもかなわない。


ココでも書いたが、
20代はこんな感じで、30代はこんな感じで、40代はこんな感じで、と
いうビジョンやイメージを描いておく。

あるいは、そのビジョンやイメージを文章で書いておく。
いつでもその文章の修正は可能。


このビジョンやイメージを描いたり書いたりという行為は、
一種のアウトプットなのかな、とそう思ったりもする。


外に刺激を求めるのもよいけれど、
ふと立ち止まり、
内なる自分を見つめてみると、
また新たな発見があるかもしれない。




インプットは何も本やネットや音楽や映画などからだけではない。
日々の日常生活から、インプットされることは多い。
単調で代わり映えのない毎日だとは決して思わない。
毎日何かしら起きている。
変化している。
その変化に気づくか気づかないかは自分自身に起因するものであるように思う。


ささいな変化にも気づける自分でいたいと思う。
ささいなことこそ日常を構成するものであり、大切にしたいなと思う。



とどのつまり、
こうして書きたいように書いていることが楽しくてしょうがないわけで、
インプット、アウトプットするその間(あいだ)というのは、
自分の中でインプットしたものを消化、分析しているのかな、とそのように思う。



インプット
  ↓
 自 分(の中で消化、分析)
  ↓
アウトプット



インプットとアウトプットのその間の時間を私は大切にしたい。
ココで書いているように、混沌(カオス)から言葉を紡いでいる時間なのだと思う。



インプットしたものを消化、分析した結果、自分らしい文章でアウトプットできれば、
それはなにより嬉しいことだったりする。