ネット世界で語り合うということ。

リアル世界で話が通じないということ


今日、アーサー・C・クラーク氏が90歳で亡くなったことをネットで知った。
ついったー上でも、そのことについての発言がちらほら。


わたしは、かみんぐあうとっすると、SF大好き人間だ。早川とか読みまくっていた。いや、今も読んでいるw
アーサー・C・クラーク氏の作品は高校時代よく読んだ。
中でも大好きなのは『幼年期の終り』 Childhood's End。
ものすごく思い出深い作品だったりする。



アーサー・C・クラーク氏について、はっきりいって私の周りのリアル世界では話をできる人はいない。
「誰、それ」と言われる。
2001年宇宙の旅』と言ってわかる人がいるかどうか、という感じだ。



ネットの世界なら……


ついったー上でアーサー・C・クラーク氏の死を悼む発言を見たり、彼の作品についての発言を見かけると、なんともいえない嬉しい気持ちになる。
決してアーサー・C・クラーク氏の死を喜んでいるわけではない。
私と同じようにアーサー・C・クラーク氏の死を悼む人がいるということを目にして嬉しく思うのだ。



リアル世界では話が通じなくても、ネット世界なら話が通じる人がいる。
それが嬉しい。
アーサー・C・クラーク氏に限らず、同じ作家のファンを見つけると、本当に嬉しいし、いろいろ話をしてみたくなる。
わたし的には、できれば、ついったーというタイムライン上ではなく、メッセやスカイプで、しっとり、まったりと語り合いたい。



ネットなら同じ趣味の人を容易に見つけることができる。
やはり好きなものについて、同じ好き同士語り合いたいと、私は思う。
それができるネットの有用性を最近特に感じている。



ネットというツールを使って同じ趣味の人とつながっていられる、この醍醐味(面白さ)は、もはや手放せない。


ネット中毒、ネット依存症、悪く言えば、そんな感じかもしれない。
職場でもPC画面から離れることはないw
家に帰ってもまずはまっさきにPCを起動させるw


ネットがなくても生きていけるだろ?

そう言われれば、生きてはいける、と答えるだろう。
が、生きてはいけるだろうが、ひどくつまらない人生になるだろうと思う。



とどのつまり、ネットは面白い\(^o^)/


ネットの世界は、まさしくなんでもありの世界だ。
そこが面白い。
私は私のスタンス(ペース)でネットを楽しんでいる。
同じ趣味の人を簡単に見つけられるのもネットの世界だからこそ、と思う。



私の場合、リアル世界で趣味について語れる人はほとんどいない。
しかし、それはそれで仕方がないと思う。
リアル世界で趣味について語れないのであれば、ネット世界で語り合えばいいのではないかと、そう思う。


ネットはツール。ネットはリアルの人と人をつなげるツール


ネットはツールでしかないと私は常々思っている。
ネットの向こうには必ず人がいる。
文字を打っているリアルの人がいる。
大事なのはそこだと思う。
ネットはリアルの人と人をつなげるツールだと思う。
言い換えれば、「物理的に離れたリアルの人」と語り合うためのツールがネットなのだと思う。
ネットという表現はあまりにも茫洋としているかもしれない。
具体的に言えば、メールやブログ、ブログのコメント、チャットやメッセ、スカイプ、ついったーなどがそのツールの例になるだろう。


ネットは視覚オンリーゆえ、伝える際の壁的なものがある。が……


物理的に会うことはできなくても、会話はできる。語り合うことができる。それを可能にしたのがネットだと思う。
視覚オンリーゆえ、言葉や文章にはかなり「伝える際の壁的なもの」があり、勘違いや取り違え、齟齬といったリスクもあるわけだが、それでも意思の疎通は、ある程度図れると思う。
ネット世界で語り合うということは、そんな感じだろうと思う。
そもそもリアルで会って話をしたとしても、完璧に意思の疎通がとれるとは限らないわけだし。



が、ある程度の意思の疎通しか図れないとは言っても、どうせ伝わらないんだし、とあきらめるようなことはしたくない。
伝える際の壁的なものがあるにしても、どう受け取られるかわからないというリスクがあるにしても、それでもできるだけ伝わるように努めたい。
できるだけわかりやすく、伝わるように、素直に表現したい。
その根本には私はなにより自己欺瞞というのが嫌いだということがあったりする。


Yahoo!辞書より引用

じこ‐ぎまん【自己欺瞞】
自分で自分の心をあざむくこと。
自分の良心や本心に反しているのを知りながら、
それを自分に対して無理に正当化すること。自欺(じき)。

リアル世界でもそうだと思うが、ネット世界でも素直が一番だと思う(^ω^)