ブログの文章、見えない部分。


先日、ベランダから行きかう車や立ち並ぶマンションを見ていた。ひたすら見ていた。車の中にも立ち並ぶマンションの中にも人は住んでいて、車の場合人が運転していたりして、ああ、そうかー、人の数だけ人生ってあるんだよなーと思ったりした。


そして、見えないけれど人の数だけ内面世界というのは存在していて、その内面世界というのは、その人を取り囲む外の世界と同じくらいに広く深いものなんだろうなと思った。人の内面世界は書いたりしゃべったりといった行為で外側に明らかにされ、つまりはそうすることによって他人は触れることができる。「言葉で表現すること」それは「他の人が触れること」を可能にする。言葉によって人は触れ合える。コミュニケーションのはじまりは多くの場合挨拶であり、言葉を交わすことからはじまる。自分が発した言葉に他人が触れ、また他人の発した言葉に触れて言葉を返すこと、それがコミュニケーションなのかなと思う。しかしながら、いや残念ながらと表現すべきなのかもしれないが、その触れることができる部分=明らかになった部分というのは、個人の内面世界のほんの一部、表に出たほんの一部にすぎない。


そういった意味でブログの文章も見えない部分(表現されない部分)というのが多分に存在して、思っていること考えたことのほんの一部が可視化しているだけなんじゃないかとそのように思う。そう氷山の一角のように。


特にブログという媒体の場合、内容についてまとめて書くことを要求される。要求されるというか、私の場合はまとめることを念頭におきタイトルにそった内容にしようと努めている(一応形としては)。したがって、まとめるために文章の枝葉の部分は切って捨てている。切って捨てた部分は、もちろん読み手には読めない部分(非可視化部分)となる。また私の場合、うまく書けなくて書いては消してを繰り返す場合も多い。もっともっと言いたいことがあったのだけれど、それをうまく表現できない。うまく表現できず見えない部分、それは氷山の水面下に沈んでしまう。


ただ、それでもここで書いたように

当たり前のことだが、文章として表現し公開してこそ他者は読むことができるわけで、賛同するにせよ非賛同するにせよ、書いて公開しないことには、どんな素晴らしい考えも誰にも知られないままということになる。これは本当にもったいないように思う。

と思うので、つたなくても可視化できた部分だけでもアップしたいと思う。


(追記 2008/6/25PM21:35)
「自分の考えは素晴らしいのだ」ということをアピールしたいがためにアップ(公開)しているわけではない。素晴らしいかどうかといった評価は読み手がするものであると考える。