ネットについて考えたことをだらだら書いてみた


先日のクロノトリガーのDS発売予定情報にしろ、いいともの押井守監督の出演の情報にしろ、Twitterの情報は早くて手軽で助かる。


そういった情報をいかに見落とさないかなのだけれど、知りたい情報については、たいてい向こうからやってくるものだと思う。あるいは必要な情報は必要なだけ入ってくるという感じかな。
知ることができることは知った方がいいと思うけれど、つまりひっくりかえすと、知ることができないことは、つまり知らないほうがいいことなのだとそういう風に考えてる。先日のかみんぐあうとっの記事ではそこまで書かなかったけど。


結局のところ、知ることのできる範囲内「自分の視界に入るだけ」が世界として成立しているように思う。


ネットも自分が巡回する、クリックして開いたウィンドウを通してだけ接することができる世界、ほんのほんの何十億分の一の世界なんじゃないかな。 どんどん作られて膨らんでは消えていく世界。ネット。
触れるのはごく一部。自分が存在した時間とネットが存在した部分が重なるところだけがリンクできる。
自分ひとりで見つけられるものはほんの少しで、ひとりで見つけられるものなんてたかが知れてると思う。
だからこそニュースサイトやアルファブクマーカーの存在はありがたいわけで……。


結局のところ、ネットをするのは知識欲によるものなんじゃないかと思う。見たい知りたい楽しみたいという欲。
そこらへんが私は人一倍強くて、吸収したくて、貪欲ということかな。 貪欲というのは実のところいいイメージが一般的にないみたいだけれど、わたし的には悪いイメージはないかな。
知識を増やしたい学びたいっていうのは、つまりは成長とか変化につながるわけで、インプットしないことには自分という中身は変わらないものだと思うし、インプットしてそして考えることかな。
考えることをやめたら、使えない人間になってしまうような気がする。


テレビでコピペ問題をやっていたけど、あれもレポートを書くのに考えるのがめんどくさいから、ネット上の文章をコピペするんだよね。コピペしてそれで済まそうとする。引用でもないのに。自分の言葉でもないのに赤の他人の文章を持ってきて、それで評価されたってうれしくないと思う。というか評価する側(教授とか)は見抜かないといけないと思う。それにだいたい見抜けるものだと思う。学生が書いたものかプロが書いたものかの違いくらいわからなくては教授は務まらないんじゃないかな。コピペしたってばれるよ的発想がないのかなーと思う。とりあえずコピペしておけーって感じなのかな。考えるのがめんどうくさいからじゃないかな。まぁ私の大学時代も丸写しとかやってる人いたけどね。(コピペという言葉は当時なかったw)



自分の言葉で書くことの楽しさとか快感を知らないんだと思う。つたなくても下手くそでも矛盾とか整合性とかなくても、とにかく書いてみたら面白いのにと思う。きちんとした文句のつけどころがないような文章を書けるのはそれはプロというもので、レポートなんかでそういうものを書かなきゃいけないわけじゃない。プロの文章をコピペすれば、そりゃかっこいいものができあがるだろうけれど、それって自分の考えがありませんっていうのを露呈するようなもの。書けないからコピペするんだろうけれど。書けないのは、つまり考えていないからなんじゃないかなー。考えるのがめんどくさいのかもしれない。いろいろと。興味があれば別だけど、興味がないことだったら、テキトーにできるだけ短時間で労力をかけずに終わらせてしまいたいのかもしれない。だからコピペなんだね。ある意味すごく合理的。褒められないけれど合理的で、時間節約労力節約の方法ではあるわけだ。コピペ。



考えるのも書くというのもすごく楽しい作業なのになー。書いて読み返すのもすごーく楽しい。



どうせいつかは消えちゃうものだから。書いたものって。ブログとかもいつかは消えてなくなってしまうもの。今書いているこの文章も私のブログも3日後、3週間後、3ヵ月後、3年後、どうなっているかわからない。あとかたもなく消えてしまっているかもしれない。
「でも読んだ人の記憶には残るよ」という人もいるかもしれないけれど、その読んだ人もいつかは死ぬわけで、死んだら目に見える形ではもう残らないわけで。
そんなものだから、そんなものだってわかってて、だからこそ書いてる。なんか矛盾ぽいけど、消えるものだからこそ書いておくみたいな。どうせ消えてしまうんだから、それなら最初から書かなければいいというんじゃなくて。
存在の有限性を証明するために書くって感じかなー。(まぁ証明するために書くって表現は大げさすぎるかもw)
まぁとにかく書かないことには存在しないわけで、書くことは存在証明になるわけで……。


考えたことを残しておく方法として私は書くことしか知らない。他に方法はあるだろうか?
自分に与えられた時間は有限で、それは大切に使うものだと思うから、それなら好きなことで使わせてもらおうと思うから、こんな風にぐだぐだ考えながら書くことに時間を費やすのだと思う。
ぐだぐだ考えながら書いているその間のフロー状態はたまらない。快感。何時間でも書いていられる。気がつけば朝だったみたいなwうん、でもそれも楽しい。有意義な時間の使い方。自分が楽しめる時間をすごせるのがいちばんだと思う。
そしていろんな考えいろんな文章に触れたい。広く深く。その方法として有効なのがネットなわけで、本以上に手軽なのがネットで、ネットがあってよかったと思う。


書くこと=可視化し、それを公開することで、「可視化できないネットの向こうのリアルの人」とつながることができるというのは、本当に面白いと思う。可視化したものそれだけがつながる唯一のもの。お互いの姿は見えない。
お互いが見るもの。それは姿ではなく、文章であったりするわけで。
まぁあいまいさを伴う文章でつながる関係というのは、やはりあいまいなものだったりするのかな、と思ったり。それはそれで仕方ないのかな、と思ったり。
そんな感じでネットでのつながりについてもいろいろ考えたりしてる。
もし私がネットをやめるときはどんなときかな、とか。