寂しかったら動くこと。感じていること、気持ちを言葉にすること。

自分のブログの文章を久しぶりに読み返してみて驚いたw
今年の4月に書いたものだけれど、この頃の私は寂しかったのかな、と思うw

かみんぐあうとっすると、私の中に昔からいつも恋愛をしていなければいけないというのはなくて、むしろ仕事をして自分の趣味を充実させる、学生時代だったらバイトとサークル活動の方が重要で、別に彼氏がいないからさみしいとかそういうのはなかったように思う。
結婚してからの方がさみしいような気がする。
結婚して同じ屋根の下で暮らしていたとしても、結局のところ別の人間で考え方も違えば、習慣も違う。
趣味も違う。
夫婦で同じ趣味を楽しめたらよいのでしょうけれど、そういうわけではないのが現実。
まぁ趣味なんて自分が楽しむものだから、とやかく言われるよりはましかな、とも思う。
【雑文】ネットにおけるつながり感とか孤独感とか―かみんぐあうとっ)より

今は寂しくないですね。
それは自分から動くようにしているから。自分が感じていること、つまり自分の気持ちを言葉にするようにしているから。


オフでも友だちと会うのでも自分から動くようになりましたね。自分から誘い、そうしているうちにオフも友だちと会ったりするのも誘われるようになりました。最近も友人に誘われ、ランチしてきました。
メールもメール好きなので元々頻繁にする方だったけれど、最近ダンナさんにも携帯でメールをちょくちょくするようになりました。朝ダンナさんの調子が悪そうだったら、昼休み頃「体調はどうですか?」とメールしたり、「お昼は何食べた?」とか「今日も遅くなりそうですか?」とか「歯医者行ってきたよ」とかとか、たわいもないことをメールします。なんていうか、そうしてメールすることでなんとなく安心感というか、寂しさが紛れるような気がしますw


黙っていてもわかるよね、というのは幻想で、やはり言葉に出して言わないとわからないものだと思います。寂しいのなら寂しいと言葉にしないと人には伝わらない。楽しい、うれしい、悲しい、怒ってる、そういった感じているものを伝えるには、やはり言葉に出さないとわからないと思うのです。言葉にしないで、わかってもらおうというのは虫がよすぎるんじゃないかなって思うのですよね。


素直に楽しい、うれしい、悲しい、怒ってる……表現することは悪いことではないと思います。怒ってるということもどうして怒っているのか、そこらへんを聞いてもらいたいというのが人にはあると思うのです。「ねーねーちょっと聞いてよー、ねーねー」というのがw


話をするというのは大事だと思いますね。私の場合、うちでは本を読んだり、モノを書いたり、黙々と料理を作ったり家事をしたりでしゃべらないことが本当に多い。閉じこもってしまうことの楽チンさというのは確かにあって、ついつい自分の世界に入ってしまいがちです。けれど、それじゃいけないとふと思ったのですね。自分の世界は自分の世界で大事にするけれど、それだけじゃダメだと。もっと話をしようと。話をすること、話を聞いてもらうこと、相手の話を聞くこと、言葉のキャッチボールをすることで、得られるものがあるんですよね。それはリアルだけでなく、ネットでも同じなわけで、例えばtwitterでも言葉にしてつぶやいてみないとはじまらない。当たり前ですけれど。

んーと、さみしいからネットのみに依存するというのはどうかと思うけれど、でも、自分で自分を楽しくするツール=さみしさ解消ツールとしてネットが有用なら、それでもOKなんじゃないかな。
【雑文】ネットにおけるつながり感とか孤独感とか―かみんぐあうとっ)より

これは今でも思いますね。ネットを楽しむというのは悪いことではないと思います。基本的には自分で自分を楽しくするというスタンスが好きですね。誰かに楽しくしてもらおうという依存的な姿勢ではなく、自分で楽しいことを見つけていく方がわたし的には好きです。あー、自分のことは自分でどうにかしたい、というのが私の根底にあるからかもしれないですねw そうですね、もし寂しかったら、自分から動いてみる、アクションを起こしてみたらいいんじゃないかな。動いてみて、そこからはじまるものなんじゃないかな。そんな風に思います。