拒絶するよりは受容。あるいは許容。

わたしのスタンスは反論を更に反論し返すということは滅多にしないという形。自信を持って言えるときはやるけど、多くは「なるほど、そういう意見もあるのか」と思うだけ。


知識が中途半端にあるからこういう考え方をしているんだ。誰かが「これはちがうよ」と言ってくれたら、とりあえず頭の隅におく。勉強しているうちに「つながる」瞬間がやってくるんだ。「あ、あの人が言っていたのはこういうことか!」ってね。


まだまだ知らない言葉、知らなければならない知識がたくさんあるから、アウトプットに疲れるわけにはいかないよ。楽しんでいたいんだ。

反論を「つなげる」(踊る肉とパイナップル)より

私も反論に対して反論は滅多にしないかな。反論は反論として存在していいと思うので、反論に反論するのは余程のときだと思う。『「なるほど、そういう意見もあるのか」と思うだけ』それは私も同じですね。


コメントやブコメにも過剰な反応はしないようにしていますね。他の人のブログのコメントやブコメも横からどうこう言う問題でもないと思うので、読んで流すようにしてますね。まぁそれが一般的だと思いますが。最近思うのはコメントやブコメって書いた人の人柄的なものってわかるなぁと。いつも辛口なコメントをする人はたいてい辛口だし、ななめから見てるなぁというコメントをつける人はやはり一癖(ひとくせ)あるように思います。面白いコメントをする人はいつも面白いコメントをしていたりする。結局のところ、人それぞれ好きなように書きたいように書いているのだから、それをどうこう言う必要はないんじゃないかと思うのです。どんな意見も意見としてあっていいと思うのです。


勉強しているうちに「つながる」瞬間がやってくるんだ。「あ、あの人が言っていたのはこういうことか!」ってね。
反論を「つなげる」(踊る肉とパイナップル)より

これは、本当にそうだと思う。
つながる瞬間ってやってくる。その時はわからなくても、あとからいろんな経験をしてから、ああ、あれってこういうことだったんだとわかる時が来る。


人は階段をのぼるみたいに――階段といっても単調なまっすぐな階段だけでなく、途中で踊り場があったり、あるいは時には目が回りそうな螺旋階段をのぼるみたいに――成長していく、レベルアップしていくという風に私は考えているのですが、成長の途中、つまりレベルがまだ1のときには、経験も知識も少ないし、わからなかったりするのですよね。それがレベル2にあがると、わからなかったものがわかるようになる。できなかったことができるようになる。例えば、そうですね、ひらがなカタカナしか読めなかったのが漢字も読めるようになるとか、足し算引き算しかできなかったのがかけ算割り算もできるようになるとかそんな感じかな?


私が小学校1年生の頃、仲良くしてくれていたお兄さんがいて、いつだったか唐突に「三角形の内角の和は180度なんだよ」と言われて、当時の私はわからなかったんですよね。小学校1年生ですからw でも、ある日何年生だったか忘れましたが算数の時間に、三角形の内角の和は180度だと知って、ああ、なるほど!あの日お兄さんが言っていたのはこのことだったんだーと、すごくうれしかったのを思い出します。ポン!と膝をうつ感じですねw あとからわかるということはこんな感じであったりしますねw


まだまだ知らない言葉、知らなければならない知識がたくさんあるから、アウトプットに疲れるわけにはいかないよ。楽しんでいたいんだ。

反論を「つなげる」(踊る肉とパイナップル)より

そうなんですよね。アウトプットに疲れてちゃいけないと思います。
アウトプットも大事だけれど、インプットも大事。アウトプットはできるならした方がいいけれど、なかなかできないものだったりしますね。ブログを書くのもアウトプットですが、やはりインプットしないとアウトプットも難しいかな。インプットからアウトプットへの一連の流れをシステマチックにできればいいのでしょうけれど、そううまくはいかないものですね。人間は機械じゃないからw


うまくアウトプットできなくて、もやもやを抱えたままでいること、実は多いです。うまく外に出すことができない。それは、文章化できないということだったり、あるいは自分の考えをはっきり規定できなかったり、自分の気持ちや感情といったものも外に出せなかったりする。んー、つまり、もやもやです。そのもやもやを何らかの形で昇華する必要はあるのかな、と思ったり、その昇華されて生まれたものが文学だったり芸術だったりするのかな、と。


他者の意見には寛容でありたいし、だからといって流されるわけではなく、自分は自分の意見を持っていたい。私がこのブログでもよく書く自分の軸をきちんと持っていたい。聞く耳を持ちつつ、ブレない自分でいたい。そうですね、自分の中には二律背反みたいなものがあって、どちらとも決められない迷い続けるところもありますね。白黒はっきりつけられないところ。優柔不断なところ。まぁそれはそれでしょうがないかな、受容するしかないかな、と思ってます。どんなものも受け入れてしまえば、楽になるものです。拒絶するよりは受容。あるいは許容かな。自分についても他者についても許容することができれば、やたらと争ったり苦しんだりすることはないんじゃないかな。なんかよくわからない文章になってしまったので、このへんにしておきますw