またねと言って別れたい。再び会うために。

例えば大切な人を失って、つらい経験をした、そのつらさ、やるせなさ、せつなさ、無力感、取り残された孤独感、寂寥感といったものは失うという経験をしたからこそ表現できるようになるということはあると思います。
ブログを読んでもらうために大事なこと―テクニックとメッセージかみんぐあうとっ

失う、別れる、会えなくなるという経験は、できればしたくないものですが、そうも言っていられないのが人生なんだと思います。
出会えば別れもある。また会えると思っていたけれど、二度と会えなくなることもあったりするのですよね。若い人には実感しづらいかもしれません。
会えるときには会っておこう。本当にそう思います。
なんとなく疎遠になって、連絡もとらなくなって、まぁ元気にやってるんだろうな、と思っていたら、もうこの世の人じゃなくなってた、ということあります。


人は有限の存在。どんな人もいつかは死ぬ。普段忘れていることなのですけれども。



「ひとりの人間の存在」「自分という人間の存在」というものは、思っている以上に大きくて、周囲に影響を与えているものなのかもしれません。
もっとも影響力の有り無しの判断は他者がするものであって、自分で自分の影響力、存在感を誇示するものではなく、そういったものを誇示するのは恥ずかしいことだと私は思っています。



そうですね、生きている人間の存在感と死んだ人間の存在感は比べものにならないわけで、死んでもなお影響を残す人というのは確かにいますが、やはり過去の人で、この世界というのは、やはり生きている人間のためのものという感があります。



失うという経験をしたことがないという人もいると思います。大切な人、身近な人を失い、別れ、会えなくなるという経験をしたからこそ、人生って深いなぁと、生きるってこういうことなのかな、こういうことを経験していくのが人生なのかなと思うようになりました。楽しいこともあるけれど、楽しいことばかりではない。自分の力ではどうしようもないものというのはあります。「思いどおりにならないのが人生だ」と大学時代お世話になった先生がおっしゃっていましたが、しかしながら思いどおりにならないからといって、あきらめてしまうというのは私の考え方ではなくて、そうですね、「何が起こるかわからないのが人生」だとそんな風に思います。
ラッキーもアンラッキーも誰にも起こりうるのが人生。隣の芝生は青く見えます。隣のラッキーはものすごいラッキーに見えたりします。ただそれだけなのですよね。
自分にもラッキーなことは起こっているのにそれに気づかない。今持っているものがあるのにそれを当たり前だと思ってしまう、他の人がよく見えてしまう。そうですね、やっぱり隣の芝生は青く見えるのですよね。隣は隣でいろいろなんだかんだとあっていて、それが表に出てきていないだけかもしれません。



楽しいことだけ。楽しく笑っていられればそれでいいのでしょうけれど、そうも言っていられないこともふりかかってくるのが人生のように思います。経験してこそわかる痛みというのもあります。痛みというのはつらいもの。そうですね、薄皮がはがれるように少しずつ癒えていくか―――もしくは痛みと共に生きるというのも有りかもしれません。ええ、心が痛いということあります。どうしようもなく痛い。痛くて苦しい。生きていると感じるのが痛みで、生きているからこそ感じられるのが痛みなのかもしれません。そういった痛みを知って優しくなれたり、強くなれたり―――。私の場合、誰にも言っていませんが、過去に最低最悪だと思えることを経験していて、もうそれ以上の最低最悪はないと思ってます。その最低最悪を乗り越えたのだから大丈夫、前を向いて歩いていけばいいと、前を向いて歩いていくしかないと、ある種の開き直りかな、開き直ると明るくなれるものです。痛みというものは個人差はあれど、誰しも感じるもので、傷ついたことがない人というのはいないと思います。痛みは代わることはできない。痛いけれど、それをどうにかする、和らげることができるのは自分しかいないように思います。どんな慰めやアドバイスも本人が納得して受け入れられないと、効果はないように思うのです。



楽しいことばかりではない。とはいえ、それでも楽しんだもの勝ちなのかもしれません。自分が楽しいと思えることがある。楽しいと思えることができるという状態は幸せで、楽しいことなんかないという人は疲れすぎてるんだと思います。そういうときは休むしかないと思います。やる気がなかったり、なにもかもめんどくさく思ってしまう原因は睡眠不足にあるんじゃないかと思うのですよね。体や心を壊してしまう前に壊れてしまう前に休む。休んで回復してそれからまた動き出せばいいと思うのです。




自分という人間が今ここにいるということ、それを不思議に思います。
ええ、いつも不思議に思っているわけではないのですが、ふとどうして自分は今ここにいるんだろうと思うのですよね。私が生まれて子どもの頃暮らした家はもうありません。取り壊され、更地になっています。緑あふれる田舎の大きな古い家でした。縁側があり、縁側にはオルガンがあり私はいつも弾いていました。その隣には足踏みミシンもありました。古い昔の家なので床下が高く、納屋があり、裸電球がぶらさがり、薪がありました。お風呂は薪を焚いて沸かしていました。春にはツバメが飛んできました。ツバメが出入りできるように昼間は木戸は開けっ放しにしてました。そういった光景は記憶の中に残っているのみです。そしてふと思うのです。私という存在も誰かの記憶の中にかすかに残ったりするのかなと。ふとした時に思い出されたりするのかなと。



センチメンタルな感傷だけでは生きていけないことも知っています。日常や現実があって、やるべきことは山ほどあります。山ほどあって途方に暮れるくらいです。私はあまのじゃくなので、あえてゆっくりしようと思います。生き急ぐ必要はない、焦る必要はないと。毎日を丁寧に、こうして考えながら書く時間を大切にしたいです。大切なものはどんなことがあっても守るべきで、そうですね、大切なものというのは人それぞれちがうと思います。それぞれに大切なものを守る。大事にする。それでいいんだと思います。


私の場合、書くことでストレスが解消される、自由になれるというのはあります。ここは私の領域で、好きなことを書いていい。ありがたい大切な場所です。そして誰でもそういった領域、城というのは持っていいのだと思います。



最後に。
どんなときも「またね」と言って別れたいと思ってます。
さよならという言葉は好きじゃないです。



再び会うために。



またね。