言葉と痛みと強さと。

どうしてそんなことを言ったのか
もう自分はよく覚えていないのだけれど
相手はずっと覚えていて
それをずっと気にしている、あるいは時々思い出して苦しくなっているという場合がある。


どうしてそんなことを言ったのか
自分でももう思い出せない
相手もどういうシチュエーションで言われたのかはよく覚えていないらしい。


ただ、相手から言われた「言葉」が棘のように刺さっていて
普段は痛くないのだけれど
ふとその部分に触れるようなことがあると
胸をしめつけられるような痛みが再来するというのは
わたしにもある。


もう忘れてしまってもよいようなこと。
それなのにそこにとどまった「棘」はぬけることなく
まるで沈黙の爆弾のように
いまだに存在しているのだと思う。


思い出せば痛い。
痛いから思い出さないようにする。
何かで気を紛らわせたり
何かに集中してみたり
そうすることで痛みや憂鬱になることから遠ざかろうとする。
それらは一種の逃避行動みたいだけれど
泥沼の気分にならないためには
それも仕方ないのかもしれない。


うまく言葉にできないのだけれど、
痛みを知ることで強くなれるというのはあるように思う。
ある人もつらい経験があったから強くなれたと言っていたように思う。
痛みやつらい経験が人を強くする。
そして痛みやつらい経験が人を優しくもすると、そう思う。


言葉と痛みと強さと。
どんな言葉が相手にとって「棘」となるかはわからない。
わからないから「こわい」というのはある。
相手を傷つけるつもりで言ったわけではないのに
傷つけてしまう場合もある。
また逆もしかり。
相手の思いがけない言葉で傷つくこともある。
言葉のやりとりは簡単なようで難しい。


けれど貝のように口を閉ざし無言で生きていくこともまた難しいように思う。