イメージ、虚像を覆す最強のこと

1.人は見たいように見るということ

読み手の「イメージを裏切っちゃいけない」ということで発信内容をセーブしているところがあったのですけれど、なんと言いますか

人は見たいように見るんだから、あれこれ見る人の思惑を気にしてもしょうがないんじゃない

という境地に達しました。つまり、

人は見たいように見る

2.ネットは虚像が散在する場所

イメージは発信側からどんな風にでもコントロールできる

それは確かにあります。見せる像はコントロール可。イメージを自分でつくることは可能。それが上手な人いらっしゃいます。芸能人やタレントと言われる人はイメージ戦略ものすごいです。「イメージが命」の職業なのですよね。とことんイメージにこだわって魅力をアピールします。それこそ生き残りをかけて。まぁ、その「イメージ戦略」「イメージをつくる」というのは、つまりは「虚像を作る」のと似ているな、と。「虚像」と表現するとなんとなくネガティブな感じがしますが。

虚像
実際とは異なる、作られたイメージ。
Yahoo!国語辞書より
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E8%99%9A%E5%83%8F&stype=0&dtype=0


ネットの場合、相手の顔は見えず、会ったことも話したこともない人に対して、言葉や文章だけで正確な実際に近いイメージを持ってもらうのはかなり難しいことのように思います。
たとえ発信側が苦心して工夫してイメージを作り上げたとしても読み手はそれぞれに受け取りイメージし、虚像をつくりあげるもの。その虚像がたくさん存在するのがネット散在しているといってもいいかと。
虚像なので人によってイメージするものは違うし歪んだ像にすることも可能。そして自分自身の虚像は自分で消去可能。ボタンひとつクリックひとつかふたつで存在を消してしまうこともできるのがネット。逆に実体がなくなってしまっても(死んでしまっても)ブログやサイト、ツイート等は残り続け、ネット上に存在しつづけるのもネットにおける虚像の特徴かと。結局のところ、実体の生死に関係なく残るそれらのもの―ブログやサイト、ツイート―が、たとえ虚像だとしてもそれなりのものとして人の記憶に少しで残ることができれば、それはそれでよいのかな、と。


ネットでは言葉や文章でしか判断できず正確な書き手の実際のイメージを持つのが難しい。つまり、言葉や文章で伝えられる自分というのは半分程度なんじゃないかと。残り半分は相手の価値観や感性でどうとでも変わってしまうものなんじゃないか、と。

3.イメージ、虚像を覆す最強のこと

では、虚像ではない自分をきちんとイメージしてもらうためにはどうしたらいいか。


それは会うこと

会うこと最強。

相手を知るためには会うことが最強。言葉や文章で伝えられる自分は半分程度なんだと思います。が、会って話をするとどういう人がわかります。勿論すべてわかるわけではないけれど、それでもTwitterやブログのイメージとはちがうその人を知ることができます。かく言う私もそうでしょう。話をしてみて、イメージが変わるというのはあるかと思います。Twitterやブログでの私はほんの一部でしかないです。ネット上に出せるものは出しているけれど、プライベートのことばど出さないようにしていることも多いです。が、会えばわりとなんでも話をします。会って「ああ、この人なら話をしても大丈夫だ」そう思えればプライベートなことでも話をします。相手のことをよく知らないのにプライベートなことをあれこれ話すのはやはり危険だと思いますし、信頼できる人にしか私はプライベートな話はしないです。用心深い性格かもしれません。たとえ実際に会ったとしてもその場に十何人もいて、少し言葉を交わしたくらい顔を覚えたくらいでは信頼関係というのはできないもの。理想的なのは3〜4人で会い話をすることでしょうか。会って話をする。信頼できる人だと思えるようになる。それが人のつながりとしては最強ではないかな、と。

4.イメージ作りのために自分らしさを殺したくない

虚像は虚像であるから美しい、素晴らしいという場合あります。虚像は虚像で価値があります。実体からでてきたもの。実体なくしては生まれなかったもの。書き手があってのイメージ。虚像。
書き手にとても良いイメージを持ち、それを大事にしていきたい心理も人にはあると思います。崇拝と書くと大げさですが、文章を読み続けているうちにその書き手に惹かれ好きになってしまうということはあるかと思います。実際に会ったことはなくてもまるで昔からの知り合いのように普段から話をしている人のように感じてしまう人もいるのではないでしょうか。それはまさしくイメージがなせるワザで、そのイメージを少しでも良いものにしようとすること、それが読者を引き寄せるテクニックとしてあるのかなと。


確かにイメージは大事。でも、そのために自分らしさを殺したくはないです。長所短所も含めたものそれが自分らしさ。そう思います。


喜怒哀楽あるのが人間。
会いたいひとに会えなくて寂しいのが人間。
好きになった人に好きになってもらいたいと思うのが人間。
痛みを感じて、不安になって、弱いところあって、自分をわかってくれる人、なにがあっても味方でいてくれる人がほしいのが人間。
落ちこむこともあれば泣くこともある。失敗することもある。完璧じゃないのが人間。
自分のイメージを気にしすぎて、きれいな部分だけしか見せないようとしない人というのは相当取り繕い無理をしているのではないかと。

人は見たいように見る

私もそうです。見たいように見てます。自分の視点があり価値観があり感性があります。他の人も同様で、私とはもしかしたら似ているかもしれないけれど、多少は異なる視点、価値観、感性で見ています。その他の人からどう見えているか気にしはじめたら自由に振る舞えなくなるというのはあります。自由に振る舞えないというのは苦しいです。

自分は自分でそれ以上でもそれ以下でもない。

そう思えばすごく楽になります。
どういうイメージを持たれても自分は自分。会ったことがある人はわたしがどういう人かわかってくれている。それは大きな支えになっています。


イメージどおりの人であるかどうか確かめるためには会うしかないのですよね。会うことでイメージ、虚像はおそらく覆されることでしょう。ゆえに会うことは最強。会えばイメージとちがうことがわかります。イメージはイメージでしかない。虚像は虚像。実体がつくりだしたそれはそれでかけがえのないネット上に存在し続けるもの。

イメージ、虚像を覆す最強のこと。
それは、会うこと。