嫌いなものに固執するタイプか、嫌いなものはとことんスルーするタイプか

昨日書いた自分の記事(『ネット―人の心の中にあるものが可視化される世界』)を読みかえして、開けてはいけないお守りの中身を見てしまったようなそんな気持ちになったわけで、要するに「心を可視化して良いこともあるけれど、良いことばかりでもないんだよ的なことを書きたかったのかワタシ?」と小一時間ほど問い詰めたくなりました。


知りたくない一面を可視化によって知ってしまった。ああショック。知りたくなかった。「知ってしまったワタシはこれから一体どうしたら?」「幻滅してしまって、もう以前のように振る舞えない。うわーん。」と思うかどうか。まあ人によりけりだと思いますが、わたし個人としては「ああ、その人はそういう人なんだ」と認めてしまったほうが、気持ち的には楽になるんじゃないかな、と。
その人にはその人の考え方があって、それは変えられない。
よく言われる話ですが、「他者の考え方を変えることはできない。変えられるのは自分の考え方だけ。」まぁ自分の考え方を変えるというのもなかなか難しかったり知恵の輪状態になっていたりするわけですが・・・。


わたしが思うに、無理に変えようとしなくても、人の考えというのは少しずつ変わっていくものだと思うのですよね。そのうち変わるかもしれない。幻滅するようなことがあってもそれでオワリにするかどうか、最後通牒を突きつけるかどうかはやはり自分次第。何かがきっかけで変わることもあるわけで、例えば、あんなに攻撃的で皮肉屋だったのにいつの間にかトゲトゲしたものが取れて丸く穏やかな人になってたということもあるわけで、まぁ苦笑いとかちょっと呆れた表情を出したりはするけれど、でも攻撃まではしない。そんな風に変わることあります。



このブログの『世界の曖昧さを愛する』のところでも書きましたが、私の場合曖昧LOVERなので、嫌だと思う人や嫌だと思うことがあっても曖昧なままにしておくんじゃないかと。


幻滅したり嫌うのにも、誰かを批判したり攻撃するのに体力がいりますし、結構疲れるもの。「あの人嫌い」と嫌いなことをしきりにアピールして、嫌いな理由を滔々と語る人がいるけれど、おそらく体力があって時間もある人なのだろうな、と。


「攻撃するような体力や時間がなくなった」「年をとって自分のことでいっぱいいっぱい。周りにかまっていられなくなった」というのが理由で武闘派から引退する人もいるかもしれません。



嫌いとか許せないというのは感情で誰でも持つもの。(持つことがあると書いたほうがいいかな)ただ、その「嫌い」に執着し、実際に表現するかどうかはかなり個人差があるなあと。


一方で、嫌いだからとことんスルーする。嫌いだからその人やそのことについては考えないし言及もしない。嫌いな人やものについて考えるだけ時間の無駄。視界からシャットアウトする。嫌いものは見ない。触れない。忘れる。そういうスタンスの人もやはりいるだろうな、と。


嫌いに固執して苦しくなってしまうのは良いこととは思えなくて、嫌うにはそれなりの理由があって、粘着とも似ているかもだけれど、粘着し続けるのは、おそらく自分の中に抱えるモヤモヤが解消しきれないから。
モヤモヤを解消したいけれど、自分では解消できなくて、それで誰かにあるいは何かに粘着してしまうのかな、と。


まあ、その人でないと心のうちはわからないです。本当のところはわからない。その人自身自分でもわかっていないかもしれない。


スルーしたくてもスルーできない、何か言わずにいられないという性格の人もいるだろうし、それはそれで仕方がない。ただ、自分が言ったことに対して、それがブーメランのように戻ってくるものだというのは頭の片隅にいつも置いておきたいかな。誰かの悪口を言えば、それはめぐりめぐっていつか自分に返ってくる。それはあると思うのです。


で、タイトルにしましたが、
嫌いなものに固執するタイプか、嫌いなものはとことんスルーするタイプか」考えてみたところ、わたしは後者で、スルーして視界から消してしまう(視界にいれないようにする)タイプかな。こだわるのが好きじゃないというか、多分結構適当なんだと思います。適当で曖昧。ゆるゆるとぼーっとしていたいのかも。


というわけで、今日はこのへんで。