人がいないということ、人が少なくなるということ

「(仕事で)こういうことができる人を探してるんだけど、なかなか見つからない」という話を聞いて、地方は人がいないんだなあとしみじみ思うことがあった。
私が思うに、その人が言っている「こういうことができる人」は仕事や会社がたくさんある都会へ出ていってしまっていると思う。したがって地方にはいない。


いつも思う。どんなに立派は建物や設備があっても、人がいなければどうしようもない。人は育てなければ。
マンパワーの重要性はわかっているけれど、実際、マンパワーはすぐには育たない



人がいるということは、できることも多く大きくなる。
その一方で、人が多すぎると人は大切に扱われなくなるように思う。誰かが辞めても、他に人はいくらでもいるから。人が使い捨て状態になる。


そう考えると、人が少ないほうが人は大事にされるのではないだろうか。
もっとも、大事にされることは過干渉にもつながり、濃厚な人間関係を煩わしく感じ、嫌がる人がいるのも事実だと思う。
多くの人が集まる場所のほうが埋もれ紛れこんでしまえる分、気楽で自由かもしれない。逆に互いにどういう人かわかっているところでは安心感があるのも事実だと思う。



冒頭に書いた人を探している人とは別の会社の人から「人手不足で運営自体が綱渡り状態で、これ以上ここ(地方)でやっていけない。事務所を閉鎖し、他所(都会)に移ることを考えている」という話を最近聞いて、「ああ、こうしてどんどん人がいなくなっていくのだなあ。人がいないというのは希望や可能性がなくなることと同じなのかもしれないなあ」と思った。人がいればできることも人がいなくてできなくなるというのは悲しいことだ。


そして思う。
希望や可能性がなくなっていくのを黙ってみていてよいのか、と。


人は自由に住みたいところに住んでいい。そう、住んでいいのだけれど、現実には土地に縛られていたり(代々住んでいた土地がある等)他所へ移れない事情がある人も少なくない。


出て行く人を止めることはできない。しかし「人がいなくなること=希望や可能性を失うこと」とは本当は思いたくない


地方に人がいなくなるのではなく、少なくなっているだけだとそう思いたい。そして、人が少なくなっても、それでもできることはあるはずだと。
拡大拡張することにこだわらず、悲観的にならず、small、 smart 、simple なやり方でやっていけないだろうか。


希望や可能性という言葉はとても曖昧で確実なものではない。それでも、このふたつの言葉が好きだ。未来は可変なもので、可変の幅やデザインは自分が決めるものだと思う。


人が少なくなっても完全に0でないのなら、1でもできることはあるはず。1からできることはあると思う。