ブログ8周年。「ただやめなかった」「やめる勇気がなかった」ということ

このブログは2015年11月19日で8周年を迎えたのだけれど、そのこと気づいたのは3日後で、なんというか私自身「自分のブログが何周年」とかそういうことに全くもって無頓着なのを再確認してしまった。


「無頓着」を他の言葉で言い換えれば「こだわりがない」ということで、結局のところ、この「こだわりの無さ」が私の「強み」であったりもする。強がりでもなんでもなく、毎日更新しなきゃとかテーマを決めて書かなきゃとかそういうのが全くないので、それゆえ気楽に続けられる、これは「強み」だ。


こだわる人はこだわることに関してものすごくうるさいイメージがある。これだけは譲れないとかこれは好きでこれは嫌いとか許さないとか、横から見ていて楽しそうだと思う。
しかしながら、こだわりが執着を生み、自由さを奪い、視野を狭く選択肢を自ら削ぎ落としていることもあるように思う。こだわりが個性を育むことも勿論あるけれど、こだわるあまり、他のものを否定し切り捨ててしまっている「ある人」を思い出してしまう。こだわりはアイデンティティなのかもしれない。
こだわりがない、こだわりが少ない私はアイデンティティがないのだろうか。


否、アイデンティティがないわけではない。一応ある。強くそれを表に出さないだけで、表に出さないのが私の特徴で、あえて強く出さないようにしているのが、私のこだわりなのかもしれない。


私は抽象的なことが好きで、汎用性が高いものが好みだ。考えるきっかけになるような文章を書きたいと思っている。個人の体験や経験を書いたものは役に立つし、わかりやすいかもしれないけれど、それら個人的な経験談、体験談を誰もが読みたいものとは限らない。


考えたこと思っていることを書いているだけで、それ以上でもそれ以下でもないこのブログの特色の無さが、実はとても愛おしかったりする。どこにでもありそうなブログで、探せば似たようなブログをいくらでも見つけられそうで、しかしながら全く同じものは他にはない。コピペされない限り他で私の文章を読むことはできない。ここは私のステージで一人舞台で代役を誰にも頼めない、私の代わりはいないというそこが魅力で、愛おしく思うところだ。


愛おしく思うのは、こだわりの無さと矛盾するように思えるけれど、愛おしいからこそ、こだわらないのだと思う。愛おしいからこそ自由であってほしい。自由は誰からも奪われてはならないし、書くことを誰かにコントロールされるのが嫌なのは他のブロガーの皆さんも同じだろう。


ブログを続けた年月、長さにたいした意味はない。「ただやめなかった」それだけのことだ。自由に書いていたら、いつのまにか8年経っていた。もっとも、「いろいろ事情でやめられなかった」というのもある。やめたいと思ったことも一度だけあったけれど、やめる勇気がなくて、やめられず、そうこうするうちに8年。ただそれだけだ。それだけの月日が経ってしまった。


「自分のブログを振り返って読むことはない」というのはしばしば言っていることだけれど、これは私の上書き思考がそうさせているだと思う。次々に記憶を上書きして古い記憶は消えていく。我ながら刹那すぎていかがなものかと最近思うけれど、常に前を向いていたい、前に進んで行きたいという気持ちがどうしてもそうさせてしまう。今思うのは、古い記憶は消えているのではなく積み重なり見えなくなっているだけで、ちゃんと自分の中にあるのだから何も問題はないということ。過去の、8年前の自分だったらとてもこういうことは書けなかっただろう。


私自身、動の人から静の人に転換しつつあるのは自覚している。転換は歳をとったせいもあるだろうし、これからはますます静かに内省的になりそうな気がする。内省的になることで、書くことも増えるだろうし、書いたものの何割かはブログに残していくと思う。


今思えば、何年か前、やめる勇気がなかったのは良かったのかなとそう思う。
実のところ、私の記憶上書きモードのせいで、どうして「やめない選択」をしたのか理由をよく覚えていない。何故やめるのをやめたのか、よくわからない。感情的にやめるのは嫌だと思った気もするし、やめない自分を見てみたいと思ったのかもしれない。その時は思い詰めていても、しばらくすれば冷静に落ち着くものだ。感情的にやめてしまうことは後悔につながる。どんなことでもそれは言えると思う。


私自身あまり変わっていないと思っているけれど、動の人から静の人に転換したように変わっている部分もあり、その変化に気づく意味でも文章は書き続けたいと思う。