親子丼

2014年の年末、外食に出かけた。まだ昼前ということもあって店は空いていた。店の真ん中あたりの席に案内された。私はメニューをさっと眺め、直感で料理を決めた。いつもの優柔不断さは微塵もなかった。


店が徐々に混み始めたころ、料理が運ばれてきた。
それは親子丼。
カツ丼でも天丼でもなく、親子丼。
私が食べたかったのは親子丼だった。


静かにゆっくりと噛み締めながら食べた親子丼は、舌の上でガッツポーズしては小躍りを繰り返すような美味しさだった。


私はたまにしか外食をしない。外食は一年のうち10回くらいだろう。年末の最後の外食をこんなに美味しいものでしめくくれて本当にラッキーだった。幸福の親子丼。2014年はつらいことがあった年だったけれど、神様が年の最後にご褒美をくれたかのように思えた。「よく頑張ったね。美味しいものを食べなさい、これで元気になりなさい」と。


年が明けて、また親子丼が食べたくなった。あの店の親子丼でなくてもいい。とにかく親子丼が食べたい。食べたい。食べたい。


自分では作ったことがない。いや、一度くらい作ったことがあるかもしれないけれど、おいしかった記憶がない。今の自分が作ったらおいしいだろうか。ご飯と鶏肉と卵と、あとは何を準備したらいいのだろう?醤油、みりん、だし?


材料を揃えて作ろうと思えば作れる。けれど、私が食べたいのは自分が作った親子丼ではない。プロが作った親子丼が食べたい。店でお客様に出すレベルの「これぞ親子丼!ドヤっ!」という親子丼が食べたいのだ。
親子丼。
親子丼。
親子丼。
愛しい愛しい親子丼。
熱々をフウフウしながら食べたい。


「かたまりかけの卵は色っぽい」と思うのは私だけだろうか。
鶏肉は火が通り卵に包まれ艶めかしさを増して、優しく語りかける。
私を食べて。


ツヤツヤのご飯は卵と鶏肉のベッドだ。ベッドの上で微笑む卵と鶏肉。絡み合うその姿態に見惚れてしまう。傍らでは見守るように細身のネギの執事がかしずいている。寡黙で優秀そうな執事だ。枯れ専にはたまらない。


重く鎮座するグレーの雲は退廃的な色をしている。
泣くの黙して我慢しているようにも見える。
私はまだ出会えていない。
いつになったら再会できるのか。
私は決して欲張っているわけではない。
ただ、親子丼を食べたいだけなのだ。
蕩(とろ)けそうなくらい優しい親子丼を。


「私」という人は「食べたい食べたい」と思いながら、どうして親子丼を食べないのだろうか?


おそらく、きっかけがほしいのだと思う。食べるきっかけが。
嫌なことがあったとしても親子丼をやけ食いの対象にはしたくない。親子丼は頑張った自分へのご褒美として落ち着いてゆっくり味わって食べたい。