最近わたしが疲労回復のために飲んでいるもの

最近疲れたなーと思ったら、飲んでいるものがこれです。

ポッカサッポロ キレートレモンスパークリング 450ml×24本

ポッカサッポロ キレートレモンスパークリング 450ml×24本

ポッカサッポロ キレートレモン 155ml×6本

ポッカサッポロ キレートレモン 155ml×6本

クエン酸が疲れに効くのかな。
カフェイン系の飲み物も、飲んだあとはなんか元気になった気がするんですけど、一時的。なんとなく最近は飲んでも効かなくなってきていて、このままじゃカフェイン中毒になるな、やばいな、と。


で、もともとレモン系の飲み物は好きだったので、いろいろ飲んでみたところ、このキレートレモンがいちばん私には合っているような気がします。スパークリング(微炭酸)なのも気に入ってます。


まぁ寝るのが一番疲労回復になるんですけどね。仕事があると、なかなかそう十分な睡眠というわけにもいかなくて。


でもまぁ最近はできるだけ早く寝るようにしてます。早く寝て、朝早めに起きて残りの仕事をしたり。


ブログも書きたいけれど、なかなか時間がなくて、でも書きたいことはあるので、そのうちきっと。


今はやるべきことをやって、それでいっぱいいっぱい。
毎日が経験と学びの連続。面白いです。


そんな感じで、今日はこのへんで。



意味を与えているのは自分

日々の出来事や人間関係とか、仕事で起きたこととか、そういうことに対して、ひとつひとつ意味を考えてしまうことがある。


例えば、朝、出勤途中で、黒猫に道路を横切られて、なんとなく先入観で「縁起が悪い」「何かよくないことが起こるかも」と思ってしまう自分がいた。そう思うのは、多分こどものころ聞かされたか、なにかの本で読んだせいだと思う。黒猫に横切られる=良くないこと、と意味づけているのは、まさしく自分で、自分で自分を嫌な気持ちにしていた。


で、まあその黒猫に横切られて、良くないことが起こったかというと、そんなことはなかった。


そして、別の朝、その道を通ると、またその黒猫に横切られた。それが、一週間のうち、3回か4回あった。もしかして、私がこの時間に通るのを、この黒猫は知ってる?黒猫の通勤時間帯とかぶってる?


こうしょっちゅう横切られると、縁起が悪いとかそういうことは、思わなくなった。むしろ、今日もあの黒猫が横切るかどうか、楽しみにすらなった。


事実に対して意味を与えているのは、自分。


それなら、できるだけポジティブな意味を与えたいものだ。


黒猫に横切られるのは、黒猫の通勤時間と私の通勤時間がかぶっているから、と。


疲れているときや体調不良のときは、なかなかポジティブになれないものだけれど、でも、そういうときは、無理に考えないようにしよう。


あとは、自分で事実に意味づけするのと同様、他の人もその人の視点で意味づけするものだから、これはどうしようもない。その人にはその人の視点、感覚、価値観があるから、よく言われるように「人は見たいように見るもの」。それを他者はどうこうできない。まあ、そういうことだ。


そんなわけで、今日はこのへんで。





得意分野や専門性、強みがほしいということ

自分の書くものにこれといった特徴がないのは、前々からわかっていたことだ。
得意分野や専門性、強みがほしいと思うけれど、いまだに見つけられないでいる。


まあ、ブログは趣味で書いているのだから、そんなものはいらないといえば、いらない。


いらないけれど、でもほしいと思うのは、持っていないからだろう。


ブログに限らず、
持っていないものは、欲しくなる。
別になくても困らないのに、でも他の誰かが持っていると、欲しくなるのは、どうしようもない。


欲しいものは、欲しい。
でも、手にできなくて、あきらめモードになる。無気力になる。私自身セルフエスティームが低めなのは、これも以前からわかっていたこと。


では、どうしたらいいのか。
手に入るまで、模索し続ける。
それもひとつの手だと思う。


あきらめモードにはなるけれど、あきらめてはいなくて、こうなったらいいなとか理想みたいなものはずっと持ち続けていたいなと。



こだわりすぎないということ

仕事をしていて、気になったことがあって、それが頭から離れなくて、ついつい他のことを後回しにしてしまうことがある。


気になったことにこだわりすぎて、他がおろそかになり、遅延してしまう。これはよくない。


どうすれば、こだわりをなくすことができるのだろうか。


今この仕事で大事なことは何か。
もっとも優先してすべきことは何か。
気になっていることは、あとからでもよいことではないか。


それを自分にいつも問うようにしたい。


思うに、こだわりは悪いことではないけれど、あまりにこだわりすぎると、他にしわ寄せ、支障を来すので、ほどほどにしたい。


ま、いっか。
ま、あとですればいいか。
ま、さしあたって、それは重要じゃないよね、と。



凹んだときは考え続けない。私の場合、映画やドラマを見る。

久しぶりの更新になってしまいました。


タイトルに書いたのが結論なわけですが、凹んだときに考え続けても良いことはないです。気分は強制的にでも転換させたほうがいいです。その方法は人それぞれちがうわけですけれど、私の場合、録画してたドラマや映画、Amazonプライムビデオを見たりします。


思うに、ミスや失敗、あれこれ言われ凹んだり、うまくいかなくて憂鬱になったり、それは終わったことを思い出している状態で、過去に捕らわれていると言ってもいいでしょう。


もう終わったことや過去のあれこれに捕らわれていると、これから先のこともうまくいかなくなるのではないかと。


気分をリセット、気分を換える。それは自分でできることかと。
「自分の感情くらい自分でコントロールしろ」的なことを言ってた作家さんがいたけど、うーん、誰だったか……(忘れました)。


誰かに愚痴を言ったり、文句を言ったりするよりは、自分で好きなことをしたほうが、ストレスは減るのでは?愚痴られたほうは、迷惑だったりしますし、愚痴る人に良い印象は持たれないです。文句もそう。


元々映画を見るのが好きなので、凹んだときこそ映画、ドラマを見る。その世界にどっぷり浸ります。ストレス解消になります(私の場合)。


ではでは、このへんで。
7月は1度しか更新できなくて、うーん。
8月はもう少し更新できるといいな。






自分で定義したものに縛られるということ

愛されたとか幸せだったという記憶が、根底にあると、生きていくうえで、とても支えになるというのはあるかもしれない。


もちろん愛されたとか幸せだったというのは、主観の問題だというのもわかっている。愛されたとか幸せだったとか、そういうのは自分で決めることというか、自分で決めていて、自分で自分を呪縛しているとも言える。


自分で自分の感情や状況を定義して、その自分で定義したものに縛られ、呪縛に苦しんで、憂鬱になって、苛々して、心安らかとは言えない状態はつらいものだ。そのつらさから解放されるには、いったん忘れること、その苦しいことを考えないことだと思う。


考えないことは悪いことなのか。いや、そうではない。考えても考えてもどうしようもないことはあるものだ。それなら、いったん保留にして、気持ちを落ち着かせる時間を持つ。自分をラクにしてあげる。


もっと楽しい、穏やかな気持ちで、日々を過ごして、そういう感情でいるようにするのも自分次第で、自分の感情くらい自分でコントロールしようと、まあ偉そうなことは言えないけれど、自分の感情はコントロールは可能なものだと考える。もっとも、個人差もあるので、ある程度コントロール可能と書いた方がいいかもしれない。


日々不機嫌をデフォルトにしているのは、やはり自分で、それが習慣というか、慣れというか、常態化してしまって、意外と自分では、気づいていないのかもしれない。


自分は不幸だと定義してしまえば、それに縛られる。呪縛で、苦しくなるのは自分で、それは幸せについても言えるのではないだろうか。


誰かなんといおうと、自分は幸せだと自分で定義して、よそと比べない。


定義するのは、自分。
定義したのものに縛られるのも自分。


そんなことを考えたので、忘れないうちに書いておこう。




忘れていくということ

今朝、2016年はじめの出来事を思い出せなくて、戸惑ってしまった。一年半というのは忘れるには十分な時間だろうか。


喜怒哀楽。いろんなことを忘れている自分がここにいる。


普段忙しすぎるからだろうか。


思い出す必要がないと、忘却に拍車がかかるというのはある。


つらいこと、いやなことは、努めて思い出さないようにしているというのもある。


でも、大切な出来事ですら、忘れてしまって、本当に情けなくなる。大切なことなら、忘れないはずなのでは?


どうしたら、忘れないでいられるのだろう。


思い出したいときに思い出せない。それが歯がゆい。


もしかしたら、私の記憶という容量はもういっぱいになってしまったのかもしれない。元々少ない容量で、それに経年劣化も手伝って、昔のことは忘れてしまうのかもしれない。悲しくて、せつなくて、もどかしくて、でも、どうしようもないでいる。