準備(土壌)ができていなかったら、芽は出ないということ。

ある程度経験を積んでくると、仕事を任されるし、専門性をアピールできる機会も増えて、それはとても仕事がしやすくなってよいことだと思った。


苦手なこと(したことがないこと)を押し付けられたり、ということも過去にはあった。
まぁ当時は「経験になるから」と思って引き受けていたけれど、確かに経験にはなっても、心身共に過労、ストレスでボロボロになったので、もう苦手なこと(したことがないこと)は引き受けまいと決めている。


過労やストレスでボロボロの状態でちゃんとした仕事はできない。
実のところ、ボロボロの状態では、自分の状態すらわかっていないことが多い。
あとから、あの頃の自分は酷(ひど)かった!と思い出してゾッとしたり。



最近は、「こういうことができる。こういうことは得意」というものを普段からさりげなくアピールしておいたほうがよいと思っている。
露骨にアピールするのは、まぁ日本人の感覚的に敬遠されたりするので、加減が必要なのだけれど、「そういえば、こういうことができるって言ってたよね」ということで仕事を任されたりするので、それはうれしいことだ。


仕事を任されて、そして、自分の裁量で仕事ができるようになったのもよかった。
この自分の裁量で仕事ができるというのは、本当に楽だ。
もちろん、最初から自分の裁量で仕事ができていたわけではない。
少しずつ実績を残して、そして、やっと一人で仕事を任されるようになる。

思えば、長い道のりだったなぁと。



そして、いま思うのは、「種をまかなかったら、芽は出ない」と言うのは聞いたことがあるけれど、
そもそも準備(土壌)ができていなかったら、種をまいても、芽が出ないのだなぁということ。


どんなに水をやっても、そもそもの準備(土壌)ができていなかったら、種は種のままだ。
少しは芽を出すかもしれないけれど、上に伸びることなく、枯れてしまう。


準備には時間がかかる。準備には内的なものもあるし、外的(環境的)なものもある。
芽を出して、そしてそれが枯れないように、少しずつでも上に伸びていくためには、どうしたらいいか。
試行錯誤はまだまだ続く。


試行錯誤も面白いと思えるようになったのは、まぁ最近かもしれない。
0が1になる。それがたとえ「失敗の1」だったとしても、貴重な経験だ。
一度失敗すると、それも経験値として+になる。
次は同じ失敗はするまいとするから、まぁよいのではないだろうか。



言葉と言葉以外の表現と。

普段から「言葉に頼りがち」というか、言葉で生きているような者なのだけれど、
唐突に言葉から逃げてしまいたくなることがある。
だいたいつらいことがあったときやストレスが溜まりに溜まったときだったりするのだけれど、
そういうとき、ひたすら歌詞のない音楽(クラシックだったり、サントラだったり)を聞いたり、
写真集(世界中の風景や遺跡とかの)をひたすら眺めている。


そして、聞きながら、眺めながら思うのだ。言葉以外の表現の、その奥の深さ、懐の広さはすごいな、と。


言葉にすると、どうにも限定的で、現実的で、少しも安らげない。こうしてブログを書いていても認識する対象が露呈されて、なんとも気恥ずかしかったり、言葉の拙(つたな)さに自分自身モヤモヤとしてしまったり。


言葉以外の表現方法として、絵を描いたりもしていたのだけれど、時間があまりにもかかるので、なかなか描けていない。


描くことで満たされるという感覚を知っている。描きあげたときの満足感というか、充足感というか、描いた絵をずっと手元において眺めていたいと思う。


言葉で書いたものの場合、何度も書いているけれど、読み返すことがほとんどない。
「とりあえず書いて残すこと」に比重があまりにも大きすぎるのと、
自分の文章を読み返すのは、たとえ誰も周りで見ていなくても気恥ずかしいからだと思う。
自分で書いた文章をあとから何度も修正したくなってしまうので、あえて読み返さないというのもある。


それでも言葉で表現することが自分では一番楽で速い(スピード的に)方法なので、採用しているのだけれど、果たしてどれだけ伝わっているのか、もしかしたら、伝わっていることは自分が思っているよりも少ないと思っていたほうがいいのかもしれない。


言葉と言葉以外の表現。
どちらがどうという定義を書くつもりはない。いいとか悪いとかではなく、言葉以外の表現があってよかったとそう思う。つらいとき、ストレスが溜まったとき、逃げられる場所(スペース)があるのはよいことだな、と。
誰にも邪魔されない自分だけの時間というのは本当に大事。

繰り返される日常の中で「自分をたもつ」ためには、他者や社会やメディアなんかから離れ、自分だけの時間を持つようにする、というか持たなきゃだなと。誰にも邪魔されない時間をね。


ということで長くなったので今日はこのへんで。


モヤったことを口に出すということ

本音をすぐ口にするのは好きではない。
「なんでも思ったことを言えばいいってものではない」と思っているのはまぁ今も変わらない。


しかしながら、仕事でモヤモヤさせられることがしばしばあって、
そういうときは、しばらく考えたうえで、ことばを選んで、口にするようにしている。


口にすることばは、かなりの爆弾発言になったりするのだけれど、
モヤモヤしたこと、略して「モヤったこと」を溜めこむのは正直ストレスだ。


先日もモヤったことがあったので、
周囲の状況やタイミングを見計らったうえで、
モヤったことを口に出した。


「それは知らなかった」と言う人もいれば、
「たいへんだったね」「それはモヤるよね」という同情的な反応の人も。


わたしがこういうモヤモヤしたことを抱えたまま仕事をしたくないというのをわかってくれる人もいて、
対策できるのなら対策した方がいいと言ってくれた。




ぶっちゃけ、モヤったことが解決したわけではない。
解決したわけではないが、ことばにして周囲に伝えたことで、
「モヤったことがあったこと」「解決したほうがいいこと」の共有はできたように思う。
もしかしたら、次は我が身、自分がモヤる番になるかもしれないと思った人もいたかもしれない。


しかしながら、中には、わたしがモヤったことは「よくあること」で、そんなに大げさにとらえるようなものでもない、というスタンスの人もいた。


キャパが大きいというか、経験値やレベルがわたしとはちがうのだろう。
それはそれで、そういう反応があってもまぁ当然かもしれない。


「大げさにとらえるようなものでもない」と言われても、でも当の本人(わたし)がモヤったのは事実なのだから、
それを言語化するのは本人の自由だろう。


モヤったことを誰かにわかってもらえた、それだけで精神的に楽になるというのはある。


モヤったとき、咄嗟に感情的に口にするのではなく、
しばらく考えて、ことばにするようにしている。


まぁしばらく考えても、うまくことばにできないときもあるのだけれど、
それはそれで、仕方ないと思っている。
多少のあきらめモードで、それでも進んでいくしかないなぁと。


長くなったので、このへんで。


隣の芝がどうでもよくなるとき

「隣の芝がどうでもよくなるとき」
というタイトルで書いてみる。


隣の芝が青く見えることもあるけれど、
最近は「自分の芝生」を青くしたいというか、「どんどん経験値を増やしていきたい」という気持ちが強くなってきて、
がんがん行こうぜモードになると、はっきり言って、隣の芝生はどうでもよくなる。


人は人、自分は自分。
人の目をいちいち気にしても仕方ないし、
自分のやり方が他の人にとって迷惑になるとか、なにか問題が起きるとか、
そういうのでなければ、
自分のやり方でやらせてもらう。
大切なのは結果が残せるか。どこまで設定したゴールに近づけるかだと、そう思うようになった。
もちろん、職種にもよるけれど、
私はとにかく「結果を残したい」と思う。設定したゴールに近づきたいし、そのために手を尽くしたいと思う。


もちろん、過程では大変だし、心身ボロボロになっていたりする。


しかしながら、大変さを周囲にアピールするのは好きではなくて、
大変でも平気なフリをすることが多い。
これはかなりストレスが溜まることで、
心身ともに泥沼になるので要注意だ。


なので、最近は暴風雨レベルの大変なことに遭遇したら「どうにかして逃げられないか」そっちに頭を使うようにしている。
「逃げる」がネガティブな響きなら、「負担を減らす」でもいい。
「どうにかして自分にかかる負担を減らせないか」
こちらのほうがポジティブなニュアンスになるかもしれない。


「あ、もう無理だ」と思ったら、そのときは全力で逃げる方法を考える。
潰される前に逃げる。
あるいは、自分にかかる負担を減らす方法を考える。
自分の身は自分で守らないと。


仕事だけでなく、人生一般においても、
負担になることは極力回避で。
苦手なこと、苦手な人には極力近寄らない。
年もとってきたし、自分をケアすることのほうが大事で、
無理をしないことが周囲に迷惑をかけなくて済むというのもわかってきたし、
倒れるまでやらないといけないことなんてない。
そう思うようになった。
思うに、昔は無理、無茶をしていたなぁと。


無理、無茶はしないけれど、
やりたいことはやりたい。
やりたいことをやっているとき、
隣の芝はどうでもよくなる。

というわけで、今日はこのへんで。




隣の芝生は青く見えるけど、実際言わないだけで大変だったりするんだろう。

月末になるとブログを更新してたのだけれど、
4月5月6月7月と、4か月まったく更新してなくて、
ここまで長い間更新していなかったのは、はじめてかも(たぶん)。

「書いて残したいことがあったら、書く」というスタンスは今も昔も変わってない。
それが、気楽でいいよね。


で、タイトル。
「隣の芝生は青く見えるけど、実際言わないだけで大変だったりするんだろう。」
言いたいことはここに集約されているのだけれど、
もう少し書くことにする。


うらやましいとか、憧れるとか、そういう気持ちは自然発生的なものだ。
それが嫉妬とか妬(ねた)ましいとか、そういうものになると、
とたんに苦しくなるから、要注意だ。


どうしても欲しいものがあって、でも得られなくて、
自分が持っているものを持っている人がうらやましくて、妬ましくて、嫉妬。


嫉妬したところで、自分が情けなくなるだけで、
自分がどれだけ足りない人間かを再確認して、
なんというか、努力して、あれこれがんばって、
でも、努力だけではどうにもならないことがあるのだ。


隣の芝は青く見える。
うん。そうだね。これはもうしょうがない。


でも、最近「隣の芝を管理維持するのも、実は大変だったりするんだろうな」と思うことがあった。
個人的なことでもあるので具体的には書けないけれど、
うらやましいような地位や評判を聞く人であっても、
その人がそれを維持するために、周囲の想像以上のことをしているのだということ。
地位があるということは、責任があるということ。「知らなかった」では済まされず、突き上げを食らうこともあるということ。
いやはや、大変だな、と。


大変なことがあってもそれを他の人には言わないので、
他の人は内情(実情)を知ることもなくて、
表面だけを見て、その人の芝生を判断しているという…。


表面だけを見て、判断してしまうのは、これまた仕方ないことだと思う。
いきなり誰にでも本音をさらけだすのは、至難の業だと思うし、
逆に、いつも本音をぶつけて憚(はばか)らないのも、無粋でデリカシーがないと思うし、
本音が時折見え隠れするくらいが、人間らしくていいなと思ったりする。


隣の芝生が青く見えて、落ち込んだり、不安になったりすることもあるけれど、
まぁ隣は隣で大変なこともあるんだろうな、と
下の本を読みながら思ったわけで、

長くなったので、今日はこのへんで。



物語を紡ぐ人になりたかった

「最終回を見るまでは死ねない」と思ったことはないだろうか。
それは連載している漫画だったり、シリーズものの小説だったりするのだけれど。


続きが気になって気になって仕方がない作品があるというのは幸せなことだと思う。
一体どういう結末になるのか(終わってほしくないけれど)結末を見届けるまでは死ねないと思う。


好きな世界観は、子どもの頃からほとんど変わっていないように思う。
自分の世界観を表現して、物語を紡ぐ人になりたかった。
誰かに読んでもらいたかった。
つづきが読みたいと言われるような物語を紡ぎたかった。



『哲学の先生と人生の話をしよう』を読んで考えたプラス志向のことなど。

何か大きな怪我をしたり大きな病気にかかったりすると、そのことを考えるために多大なエネルギーを使わねばなりません。人間の精神エネルギーには一定の量があり、どこかが大量にエネルギーを消費すると、他の部分には多くのエネルギーを使うことはできなくなります。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


まさしく昨年(2021年)の秋がそうだった。思いもよらない大怪我。
仕事に行けなくなるんじゃないかと思うくらいの怪我だった。
怪我や怪我の治療のことで頭はいっぱいになり、寝ていても怪我の痛みに悶絶していた。
上記の本にあるように精神エネルギーの大部分を消費させられ、ポジティブなことが全く考えられない状態だった。


と、こんな風に書けるのも、「今」だから書けるわけで、
「怪我をした当時」はまったくもって「余裕」は皆無だった。



プラス志向とは?

プラス志向は様々なことを考えずに済ますことによって可能になります。世の中に確実なことがありえない以上、何ごともよい方向で考えるプラス志向というのは信仰でしかありえません。そして、現実に起こる様々な事柄は、この信仰を揺るがすものです。当たり前です。物事は悪い方向に向かうこともあるからです。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


プラス志向は様々なことを考えずに済ますことによって可能になります。
この一文に「確かに」と腑に落ちる自分がいて、
プラス志向、あるいは楽観的(ポジティブ)でいることは、「見たくないものを見ないでいること」で可能になると、言えなくもないかな、と。

それにもかかわらずプラス志向を維持するには、悪い方向に向かっている物事から目をそらさなばなりません。そうやって眼をそらしてはじめて、何ごともよい方向に進んでいると考えるプラス志向が可能になる。つまり、多くの事柄を考えないことによってこそ、人はプラス志向でいられる。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


様々なものが目に入り、それらすべてについて逐一考え、感じ、追及すると脳はパンクしてしまうと思う。
人は見たいものを見、無意識に選択して見ている。
同じ風景であっても、人が見ているものは違う。
ある人は桜の花をひたすら眺め、
ある人は散った桜の花びらを見、その行方を考えたりする。
ある人はどうやったらきれいな写真が撮れるかばかり考え、
ある人は桜の木ごとに違う花の色が気になり、
まぁ人それぞれ見ているものは違っていたりする。


プラス志向は、今よりよりよい方向、ゴールへ向かうことを良しとする志向だと思う。
それはそれで、わるいことではない。
しかしながら、がむしゃらにゴールを目指すがゆえに、切り捨てていくものも多いのではないだろうか。


なにもかもをキープしたままで、ゴールまでたどり着くというのは、なかなか難しいことのように思う。
いや「なにもかもキープしたままで、ゴールにたどり着く」ということも不可能ではないだろうけれど、
人によっては(個人の能力やキャパによっては)、
あきらめないといけないものをあきらめて(切り捨てて)、
あるいは、見ないようにして、ゴールに突き進むというケースもあるように思う。


見ればつらくなるものは極力見ないようにし、切り離し、
なにかに集中することで、平静を保つというのをわたし自身も繰り返してきた。

抑圧とエネルギー

しかし、ものを見ないということにもエネルギーが必要です。目に入ってしまうことを無理矢理に押しつぶして抑圧しなければならないからです。抑圧には大変なエネルギーが必要とされるというのもフロイトが言っていたことです。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


抑圧には大変なエネルギーが必要とされる
それはそうだろう。
人は見れば、やはり何かしら感じたり考えたりするもの。
だから、いっそ見ないようにすることを私の場合日常的にやっていたわけで、
「進んでいく」ためには、そうすることが必要で、
「進んでいく」ことでしか、自分の居場所を得られなかったというか、
自分の居場所のために「戦ってきた」みたいな、まぁそんな感じなんだと思う。


「見ないようにする」という抑圧の結果、平静を得られるというのは、若干小賢しい気もするが、
そうすることを無意識に選んでいたので、これも一種の生きるための術(すべ)なのかもしれない。

結論のようなもの

したがって次のような結論が導きだされます。プラス志向の人は、そもそもたくさんの事柄を考えないで済ましており、また、たくさんの事柄を考えないで済ますために多大なエネルギーを必要としているから、考えられる事柄が限定されている。ということは、プラス志向の人はあまりものを考えていないということになります。


なんでそこまでしてプラス志向を維持するのか?それは人それぞれでしょう。たとえば、そこまで無理をしなければ、自分に不利な環境では頑張って仕事をしてこれなかったとか、いろいろな理由が考えられます。いずれにせよ、そうしたプラス志向を維持することで、その人は多くのことを考えずにすませている。おそらく、周囲の人間のことを考えることに使われるエネルギーはわずかでしょう。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


周囲の人間のことを考える、これはものすごくエネルギーが必要なことだと思う。
自分のことでいっぱいいっぱいであれば、周りの人のことまで考える余裕がないのは仕方がないことだと思う。


「周りの人のことまで考えなさい」というのは、余裕がある人が言える言葉で、
余裕がなかったら、自分のことをどうにかすることで頭がいっぱいで、周りの人のことなど考えられない。


私の場合、本当に余裕がなくなると、どうしていいかわからず、思考停止状態になってしまう。
昨年、大怪我をしたとき、入院はしなかったものの、
通院しても痛みはひかず、痛みで眠れず、ひたすら痛み止めの薬にすがっていた。
一体いつまでこの痛みが続くのかと、自分が吐き出す愚痴に自分でうんざりしていた。


薬があれば、痛みでどんどん飲んでしまう。


痛みをどうにかしたくて、
薬の種類を変えては飲み続けた。
これは、やばいと思った。


薬に依存し、
病院をコロコロ変え、
ドクターショッピング状態になりそうで、
結局、病院に行くことも、薬を飲むこともやめた。


もう怪我のことを考えたくなかった。
もちろん、痛いのは、痛い。
でもどうにもならない。
怪我に精神的なエネルギーを奪われるのは、もうイヤで、
ついには、怪我について考えることをやめた。
今思うと、その時、なにも考えたくない状態(思考停止状態)だったように思う。



で、「今」。
怪我の痛みはなくなったわけではない。
でも精神的なエネルギーをべらぼうに搾取されるほどではない。


精神的な「余裕」というのは、「時間を作ることだ」と持論めいたものに至って、
とにかく無駄を省き、なにもしない時間を作るようにした。


なにもしない時間(予定がない時間)は、文字通り本当になにもしなくてもいい。ぼーっとしていていい。
精神的なエネルギーを使わなくてもいい時間は、寝ている時間以外にも必要だ。


「なにかをしなければいけない」という呪縛を断ち切った状態、その時間が大事だと思う。



プラス志向、それ自体は悪いことではないけれど、
プラス志向ゆえに、抑圧しているものや切り捨てているもののもあったりするということ。
また、プラス志向といったものを誰かに押し付けるものではないし、
志向や考え方は、まぁ人それぞれだよね、というスタンスで。

この本を読んで考えたことは他にもいろいろあるのだけれど、
長くなってしまったので、今日はこのへんで。