物語を紡ぐ人になりたかった

「最終回を見るまでは死ねない」と思ったことはないだろうか。
それは連載している漫画だったり、シリーズものの小説だったりするのだけれど。


続きが気になって気になって仕方がない作品があるというのは幸せなことだと思う。
一体どういう結末になるのか(終わってほしくないけれど)結末を見届けるまでは死ねないと思う。


好きな世界観は、子どもの頃からほとんど変わっていないように思う。
自分の世界観を表現して、物語を紡ぐ人になりたかった。
誰かに読んでもらいたかった。
つづきが読みたいと言われるような物語を紡ぎたかった。



『哲学の先生と人生の話をしよう』を読んで考えたプラス志向のことなど。

何か大きな怪我をしたり大きな病気にかかったりすると、そのことを考えるために多大なエネルギーを使わねばなりません。人間の精神エネルギーには一定の量があり、どこかが大量にエネルギーを消費すると、他の部分には多くのエネルギーを使うことはできなくなります。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


まさしく昨年(2021年)の秋がそうだった。思いもよらない大怪我。
仕事に行けなくなるんじゃないかと思うくらいの怪我だった。
怪我や怪我の治療のことで頭はいっぱいになり、寝ていても怪我の痛みに悶絶していた。
上記の本にあるように精神エネルギーの大部分を消費させられ、ポジティブなことが全く考えられない状態だった。


と、こんな風に書けるのも、「今」だから書けるわけで、
「怪我をした当時」はまったくもって「余裕」は皆無だった。



プラス志向とは?

プラス志向は様々なことを考えずに済ますことによって可能になります。世の中に確実なことがありえない以上、何ごともよい方向で考えるプラス志向というのは信仰でしかありえません。そして、現実に起こる様々な事柄は、この信仰を揺るがすものです。当たり前です。物事は悪い方向に向かうこともあるからです。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


プラス志向は様々なことを考えずに済ますことによって可能になります。
この一文に「確かに」と腑に落ちる自分がいて、
プラス志向、あるいは楽観的(ポジティブ)でいることは、「見たくないものを見ないでいること」で可能になると、言えなくもないかな、と。

それにもかかわらずプラス志向を維持するには、悪い方向に向かっている物事から目をそらさなばなりません。そうやって眼をそらしてはじめて、何ごともよい方向に進んでいると考えるプラス志向が可能になる。つまり、多くの事柄を考えないことによってこそ、人はプラス志向でいられる。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


様々なものが目に入り、それらすべてについて逐一考え、感じ、追及すると脳はパンクしてしまうと思う。
人は見たいものを見、無意識に選択して見ている。
同じ風景であっても、人が見ているものは違う。
ある人は桜の花をひたすら眺め、
ある人は散った桜の花びらを見、その行方を考えたりする。
ある人はどうやったらきれいな写真が撮れるかばかり考え、
ある人は桜の木ごとに違う花の色が気になり、
まぁ人それぞれ見ているものは違っていたりする。


プラス志向は、今よりよりよい方向、ゴールへ向かうことを良しとする志向だと思う。
それはそれで、わるいことではない。
しかしながら、がむしゃらにゴールを目指すがゆえに、切り捨てていくものも多いのではないだろうか。


なにもかもをキープしたままで、ゴールまでたどり着くというのは、なかなか難しいことのように思う。
いや「なにもかもキープしたままで、ゴールにたどり着く」ということも不可能ではないだろうけれど、
人によっては(個人の能力やキャパによっては)、
あきらめないといけないものをあきらめて(切り捨てて)、
あるいは、見ないようにして、ゴールに突き進むというケースもあるように思う。


見ればつらくなるものは極力見ないようにし、切り離し、
なにかに集中することで、平静を保つというのをわたし自身も繰り返してきた。

抑圧とエネルギー

しかし、ものを見ないということにもエネルギーが必要です。目に入ってしまうことを無理矢理に押しつぶして抑圧しなければならないからです。抑圧には大変なエネルギーが必要とされるというのもフロイトが言っていたことです。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


抑圧には大変なエネルギーが必要とされる
それはそうだろう。
人は見れば、やはり何かしら感じたり考えたりするもの。
だから、いっそ見ないようにすることを私の場合日常的にやっていたわけで、
「進んでいく」ためには、そうすることが必要で、
「進んでいく」ことでしか、自分の居場所を得られなかったというか、
自分の居場所のために「戦ってきた」みたいな、まぁそんな感じなんだと思う。


「見ないようにする」という抑圧の結果、平静を得られるというのは、若干小賢しい気もするが、
そうすることを無意識に選んでいたので、これも一種の生きるための術(すべ)なのかもしれない。

結論のようなもの

したがって次のような結論が導きだされます。プラス志向の人は、そもそもたくさんの事柄を考えないで済ましており、また、たくさんの事柄を考えないで済ますために多大なエネルギーを必要としているから、考えられる事柄が限定されている。ということは、プラス志向の人はあまりものを考えていないということになります。


なんでそこまでしてプラス志向を維持するのか?それは人それぞれでしょう。たとえば、そこまで無理をしなければ、自分に不利な環境では頑張って仕事をしてこれなかったとか、いろいろな理由が考えられます。いずれにせよ、そうしたプラス志向を維持することで、その人は多くのことを考えずにすませている。おそらく、周囲の人間のことを考えることに使われるエネルギーはわずかでしょう。
哲学の先生と人生の話をしよう』より


周囲の人間のことを考える、これはものすごくエネルギーが必要なことだと思う。
自分のことでいっぱいいっぱいであれば、周りの人のことまで考える余裕がないのは仕方がないことだと思う。


「周りの人のことまで考えなさい」というのは、余裕がある人が言える言葉で、
余裕がなかったら、自分のことをどうにかすることで頭がいっぱいで、周りの人のことなど考えられない。


私の場合、本当に余裕がなくなると、どうしていいかわからず、思考停止状態になってしまう。
昨年、大怪我をしたとき、入院はしなかったものの、
通院しても痛みはひかず、痛みで眠れず、ひたすら痛み止めの薬にすがっていた。
一体いつまでこの痛みが続くのかと、自分が吐き出す愚痴に自分でうんざりしていた。


薬があれば、痛みでどんどん飲んでしまう。


痛みをどうにかしたくて、
薬の種類を変えては飲み続けた。
これは、やばいと思った。


薬に依存し、
病院をコロコロ変え、
ドクターショッピング状態になりそうで、
結局、病院に行くことも、薬を飲むこともやめた。


もう怪我のことを考えたくなかった。
もちろん、痛いのは、痛い。
でもどうにもならない。
怪我に精神的なエネルギーを奪われるのは、もうイヤで、
ついには、怪我について考えることをやめた。
今思うと、その時、なにも考えたくない状態(思考停止状態)だったように思う。



で、「今」。
怪我の痛みはなくなったわけではない。
でも精神的なエネルギーをべらぼうに搾取されるほどではない。


精神的な「余裕」というのは、「時間を作ることだ」と持論めいたものに至って、
とにかく無駄を省き、なにもしない時間を作るようにした。


なにもしない時間(予定がない時間)は、文字通り本当になにもしなくてもいい。ぼーっとしていていい。
精神的なエネルギーを使わなくてもいい時間は、寝ている時間以外にも必要だ。


「なにかをしなければいけない」という呪縛を断ち切った状態、その時間が大事だと思う。



プラス志向、それ自体は悪いことではないけれど、
プラス志向ゆえに、抑圧しているものや切り捨てているもののもあったりするということ。
また、プラス志向といったものを誰かに押し付けるものではないし、
志向や考え方は、まぁ人それぞれだよね、というスタンスで。

この本を読んで考えたことは他にもいろいろあるのだけれど、
長くなってしまったので、今日はこのへんで。



ゆっくりと、見るということ。

いそがしいということに逃げて、
いろいろなものを見ているようで、見ていなかった、そんな気がする。


コロナ禍ということもあり、家にこもりがちで、
季節の移ろいも、「なにかしらの画面」に映ったものを一瞬見て、知る。
まぁ知ったところで、特に感慨もなかったりする。
というより、感じる余裕もなかったのがコロナ前から数年続いていた。


さて、価値観というのは、ふとしたことで変わるもので、
我ながら驚いた。


ずっとかけられていた呪いが解けたというか、
自分の価値観ではないものを自分の価値観だと信じこんで、
自分で自分を縛りつけていたことに気づいたというか。


「これはこうでなければいけない」というような価値観の縛りが緩んで、
少し息苦しさがなくなったように思う。


今は、いろいろなものを、ゆっくりと見たい。
「これはこうでなければいけない」というような価値観の縛りで
なんだかんだと生き急いでいたので、
ここらでペースをおとそうと思う。


昔読んだ本を
最近ゆっくり読み返して、
発見したこと、気づいたことに涙が出たり。
今したいのは、そういうことだ。


ゆっくりと、見るというのが
今いちばんしたいことかもしれない。



作り上げられた記憶、曖昧な記憶に振り回されるということ

記憶というのは、自分だけのもので、他の人がどうこう操作できるものではない。

とはいえ、記憶は「絶対」ではないことを忘れないために書き残しておこう。


最近よく本を読んでいる。
本を読み終わって1週間ほど経ったところで、もう一度確認したい箇所が出てきた。
気になる文章が脳内で耐久盆踊り。
あの文章はどういう流れで出てきたんだろうと、再び本をめくることに。


が、見つからない。
まるで氷がとけて、水に、そして蒸発してしまったかのように見当たらない。


わたしの記憶違いだったのだろうか。
探せど探せど、見つからない。


最近は並行で数冊本を読んでいるので、もしかしたら、他の本だったのかもしれない。
ここ最近読んだ本たちをめくってはめくって、探す探す探す。


読んだ本の中の文章。もう一度確認したいと、探すという行為に憑りつかれる
(過集中の傾向は自覚がある)


憑りつかれつつも、AパートとBパートの間にCMが入るように、ふと我にかえることもある。
「これだけ探して見つからないということは、あの文章は「本を読みながら作りだした自分の記憶」なのかもしれない。
本の中に実際に書かれていたわけではないのかも…と。



今回は、あの文章はおそらく私があとから勝手に作りだした文章で、それをあたかもその本の中に書いてあったかのように思いこんでいて、うーん、これって、対人に関しても言えることだなぁと。


つまり、あの人がこう言った。こんなことを言った。あんなことを言った…。それは、録音でもしていないかぎり、自分が聞いた声の記憶でしかなく、もしかしたら、その記憶したものは間違っているかもしれない。実はそういう風には言っていなかったとか、相手の言葉のほんの一部しか覚えていなかったり、拡大解釈したり、曲げて解釈したり。それをあたかもそうその人が言ったと、記憶してしまう…。こわいな。


作り上げられた記憶、曖昧な記憶に振り回されることは、実は多い。
記憶違いを認めるのは、なかなか簡単なことではないようで、
自分は正しい、間違っていないという自信、プライドと関係しているかもしれない。


人の数だけ記憶があるのだから、ひとつの過去に対して、見解が嚙み合わないことがあるのは、なるほど当たり前かもしれない。
相手も自分と同じように記憶しているとは限らない。


さて、話を戻して、ここで書きたかったのは、
記憶というのは、バイアスがかかっていたり、曖昧だったりするで、過信するのはよくないということ。
記憶は時に棘のように深く深く突き刺さって、まわりを化膿させたりするから、厄介なものだ。
まぁこのこと(棘のように刺さること)については、書けたら書きたいテーマではあるけれど。
長くなったので、このへんで。



余力、あそびを残すということ

いやはや、気づくと2月最終日。
月に2~3回は更新したいとか思ってたのだけれど、
実際は仕事ばかりしていて、ブログは放置状態に。


とりあえず、まだ2月だし、書きたいこともあったし、書いてみようかと。


で、タイトル。『余力、あそびを残すということ』
「余力、あそびは大事だ」と思ったので書いてみる。
車のハンドルに「あそび」の部分があるように、あそびは必要。


ここ数年、仕事を引き受けすぎて、パンパンになって、
プレッシャーとかストレスで倒れそうになって、
それは今年は全力で回避したいなと。


いや、そもそも、この「全力」というのがよくないと気づいたわけで、
がんばるのもいいけど、余力を残すようにしないと!
結局は「自分で自分の首をしめることになるんだよ」と
自分に言い聞かせてる。


「考え方を変える」というか、「考え方(やり方)を変えないといけない」と気づいたのは大きな失敗をしたから。
今でも思い出せば頭を掻きむしりたくなるような大きな失敗をした。


大きな失敗をしてから、考え方(やり方)を変えたって、もう遅いと言えば遅いのだけれど、
それでも、失敗を繰り返さないためにも、考え方を変えなきゃいけないんだと思う。


そして、考え方(やり方)を変えたからって、うまくいくとは限らないというのも
自分に言い聞かせている。
なぜなら、考え方(やり方)を変えたら、きっとうまくいくだろうと、期待しがちだから。


期待はしない。
うまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない。
うまくいくかどうかは、やってみないとわからない。


とにかくやってみるしか。
自分の手持ちのカード(スキル)が少ないことを自覚して、
手持ちのカード(スキル)を地道に増やし、強くしていくしかない。


仕事に集中するのもよいけれど、
自分のメンテもしよう。
そのために余力は残しておこうと。
余力がないと、ホント、なにもできないね。


余力を残すという発想がなかったここ数年。
あそびという概念もなかったかもしれない。


というわけで(どういうわけで?)いま絶賛リピートしているのがこちら。

www.youtube.com


昨年までだったら、「余力を残す気はなかった」けれど、今年は「余力を残す」方向で。

2022年2月末現在18巻まで出ていますが、おもしろいです。



自分の価値観を否定されて、どう思ったか。

最近、自分の価値観を真っ向から否定されることがあった。
いやはや、びっくりというか、ムッとなってしまった。
そんなに強い主張をしたつもりはないけれど、「私だったら~」と言うフレーズから始まるのは、十分主張になるのだな、とあとから気づいて自分に対して嗤(わら)ってしまった。


価値観を否定され、対立関係が生じてしまい、ここで「いつもの私」がpause(一時停止)ボタンを押した。そして退却。


対立関係は苦手だ。対立の舞台ができてしまった時点で、対立から衝突に至るのが嫌で、対立から去るのが「いつもの私」だ。


誰かに自分の価値観を否定されるのは面白いことではない。
でも反論というか、自分の価値観を押し付けようという気はさらさらなくて、仮に自分の価値観をゴリ押ししたところで、よい結果になるとは限らないと思ってしまう。
「これが自分の価値観なんだよね」「今更変えられない」などと頑固、融通が利かないそういう自分になりたくなかったのだと思う。


自分の価値観を否定する価値観もあるんだと思うと、そんなにびっくりすることもムッとなることもなかったわけで、
やっぱり自分の価値観を絶対視していたんだなと、あとになって思うわけで。


価値観や考え方がぶつかって、それですぐに去る(退却)するのも、本当はよくないのかもしれない。
でも、やっぱりあの場面で自分の価値観をゴリ押しするのはどうかと今でも思うし、相手の価値観もよくよく考えたらわからないこともない。
私も自分の価値観をわかってくれると思っていたのかもしれない。
が、実際にはわかってもらえず、悔しかったのかもしれない。

「話せばわかる」というのはよく聞くフレーズだけれど、話して「価値観をわかってくれる」と「支持してくれる」というのは必ずしも=(イコール)ではない。つまり、その人の価値観はわかるけれども支持はしないということは往々にしてあるものだと、まぁそういうことだ。わかってくれると期待しないほうがいいということかもしれない。


さて、長くなってきたので、そろそろまとめ。
自分の価値観を否定されてどう思ったか。価値観を否定されて、結局のところ、それでも自分の価値観は変わらないと思ったのと、でも融通を利かせるのは大事だなと。否定される経験をしたことで否定される耐性がちょっとはついたかと思うとまぁ悪くはなかったかと。



2022年の抱負

2022年になった。
朝見た月は、低く赤くか細く今にも消え入りそうだった。そんな月を見れたのはラッキーだったのかも。


元日の朝はとりわけ静かだ。


2022年は
無理をしない。
落ち着いた毎日を過ごす。
とにかく睡眠を取るようにする。
これを抱負にしよう。


そもそも抱負とはなんぞや?と思ったので調べてみたら、
抱負とは「心の中に持っている計画・決意」のことらしい。ふむふむ。
心の中に持っている計画・決意だから、その人の自由でいいわけだ。
自由だから、壮大な(?)抱負じゃなくても全然OKと考えたら気が楽になる。


それに抱負は「心の中で持っている計画・決意」だから、わざわざブログに書かなくてもいいのかなとも思うけれど、
とりあえず書き残しておくのはいいことだ。とにかく書いておかないとすぐに忘れてしまうから。
忘れてもいいように、忘れたらいつでも読みかえせるように残しておくくらいの気持ちで、ちょうどいい。


落ち着いた穏やかな一年になりますように。