この2か月を振り返って

今日で2月も終わりということで、今考えていることをメモしておこう。
これは予約投稿ではないので、あしからず。


この2か月を振り返って、書いて残しておくとしたら、
「読書は、よい。特に小説はよい」ということ。


想像力を鍛えるために読み始めたのだけれど、なんというか、どうして今まで読んでこなかったんだろうと思ってしまう。
読むには読んでいたけれど、偏った一部の作家の作品しか読んでいなくて、ちょっと反省。


そして、小説は、年をとってから読んだ方が面白いということ。
若いころはよくわからなかったことが、年をとって読んでみると「わかる」。
わかると面白い。


年をとるのも悪くないんじゃないかと、そう思えた。
気力、体力は衰えるけれど、精神的な充足を得られるのは年をとってからかもしれない。


精神的な充足とか安寧とか穏やかさといったものは、若い時はなかなか感じられないものだったように思う(私の場合)。


若い時も、それなりに充実していたのだろうけれど、なにしろ忘れっぽい私のことなので、本当にいろいろと忘れてしまっている。
楽しかったことももう忘れてしまっている。
まぁ思い出そうと思えば思い出せないこともないのだけれど、思い出したそれは、もやっとした霧に包まれて、茫洋としている。
これは思い出したうちに入らないんじゃないだろうか?


でもまぁ、それでいいのかもしれない。
過去は過去としてどこかにはあるわけで、そのどこかを掘り起こす時間は今はないし、また掘り起こしたくもないもののあるわけで。
掘り起こしたところで、なんになる?というのがある。


それよりは、「今の精神的な充足・満足」のほうが大事だ。思い出で精神的な充足・満足ができるかといえば、それはない(私の場合)。


精神的な充足・満足を求めるのは、ストレスが溜まっているからかもしれない。
私の場合、物を買うことでストレスは発散されない。
物を買って物が増えることでうんざりしてしまうことが多い。


長くなってしまったのでこのへんでまとめたい。


この2か月、時間を見つけては本を読んだ。
本当はもっともっと本を読んでいたい。
「仕事の締め切りがなければ、もっと思う存分本を読むのに」と思わない日はない。


ここに読んだ小説のタイトルをあげてもいいのだけれど、そうするとその小説に対して、どうこう言ってくる人(たまにいちゃもんをつけてくる人)がいるので、あげたくない。よかったと思う作品を、ひそかに大事にしておきたいというのが、ある。めちゃくちゃある。私の場合、「よかった!」「面白かった!」と熱弁をふるうタイプではないのかもしれない。若い時は熱弁をふるっていた、ような気がする(うろ覚え)。


明日以降、ストックがあったら、予約投稿します。PM9時更新予定。
ストックがなかったら、更新されませんので、あしからず。


想像力を鍛えるために

自分のことはあれこれ想像する癖に、他者のこととなると想像力に乏しいということで、今あれこれ小説を読んでいる。小説を読み、登場人物の状況や心情をあれこれ想像する。登場人物なので、想像するのはもちろん主人公だけではない。


さまざまな想像をすることで、少しは想像力が鍛えられるのではないか、とちょっと期待しているのだけれど、はてさてどうだろう。


自分が経験したことがないことを小説内の文章だけで想像することはなかなか難しい。
それはリアル(現実世界)であってもそうだろう。
自分が経験したことであれば、ある程度の想像もできるが、経験していないことから想像するとなると、全くの的(まと)はずれな想像をしてしまいそうで、ちょっと怖い。怖いというのは、表現としてどうなのだろう。想像が的(まと)はずれであるのを怖がるのは、自分が正しくありたいと思うからだろうか。


正しさへのこだわりは強いほうだ。強くてうんざりして、いっそどうでもいいとなってしまうこともある。
正しさにこだわり雁字搦(がんじがら)めになるのがイヤというか、めんどうというか。


それなら正しさにこだわらなければいい。
まぁ少々まちがっていてもいいよね、くらいのゆるさ。憧れる。


そう、想像なんだから、違うこともある。
想像は想像。
その想像で誰かを傷つけるとか、取り返しがつかないようなことになるとか、そんなことでなければ、自由に想像していいんじゃないだろうか。想像は脳内で。自由に想像する。想像するのは自由。


想像力を鍛えるためにいろいろな小説を読み始めた。
なかなか想像できないものもあるけれど、その場合、想像するための情報が足りないのだと思う。
想像するには情報がある程度必要で、情報があってそこからいろいろなことを読み取ることができるわけで。


どうしてこうも「想像力」に固執するのか、自分でも不思議だ。
誰かになにか言われたわけではない。
でも、ふと自分の苦手な部分に今更のように気づいてしまって、今更だけどどうにかしたいと思っているのかもしれない。


長くなってしまったので、このへんで。
ストックがあればPM9時に予約投稿されます。
ストックがなければ更新されません。あしからず。



想像力が生む不安

komoko.hatenablog.com
↑で書いたものの続きなのだけれど、
ここで私は「想像力が乏しい」と書いたのだけれど、うーん、一概にそうも言えない気もしてきた。


「他者に関する想像力が乏しい」が正確な表現で、自分については、物凄いレベルで想像する。
特に未来、これからについて想像する。想像し過ぎて、不安になる。怖くなる。
まだ現実にそうなっているわけではないのに、もしかしたらそうなるかもしれないという想像で自分を怯えさせている。
我ながら間抜けだなぁと思うのだけれど、いろいろと想像してしまうということは想像力は、まぁそこそこあるのかもしれない。


もちろん、自分の想像力で救われたこともある。過去、小説(ラノベ)を書いていたことがあるのだけれど、それは自分の想像力の産物だ。想像し、言葉を紡ぎ、文章を織っていくのは楽しい作業だ。自分で自分を救う作業を長い間してきた。


今そういった創作活動をしていないのは、自分の想像力の限界を感じたからで、言い換えれば自分の想像力の平凡さに呆れて筆を置いてしまった(書くのを止めてしまった)ということかもしれない。


たくさんインプットすれば、想像力の幅が広がるのか。確かにそれもあるかもしれない。インプットしてインプットして、それが独創的なアウトプットにつながるかといえば、必ずしもそうではなく、誰かが書いたことの「二番煎じ」にすぎなかったり、自己顕示欲を満たすために書いているにすぎなかったり……。


自己顕示欲も承認欲求もそれ自体は悪いことではなくて、自己有用感とか自己肯定感とか、それは必要なものであるように思う。ただ、私の場合、小説を書くこと、それだけに限定するのは、ちょっと怖い、リスキーだと思ったわけで。書くこと以外にできること探しの旅に出て、現在に至っている。クエストはまだまだ続いている。なかなかゴールにたどり着けない迷子になっているとも言える。
勿論、一つのことに打ち込むというのは悪いことではなく、打ち込めるものがあるというのは良いことだ。


話がそれたので戻そう。
想像しすぎて、不安になってしまう。
「もし~たら……」と。
想像力して悲観的になってしまうので、そこを逆手に取るようにした。
つまり、想像した状態にならないためにはどうしたらいいのか考える。
先手必勝的なことが好きだというのもある。
何もせず手をこまねいている、傍観しているよりは、なにか手を打つ。
とりあえず何かやってみる的なスタンスは昔から変わらないように思う。


そして、何かやってみるにあたり、まずは情報(知識)集めから始めるのはセオリーといえばセオリーかもしれない。


無知が不安を増幅させることもあるので、知ることを疎かにしてはいけないなぁと。


「想像を超えた」という表現があるけれど、なるほど、想像というのは常に超える可能性があるもので、自分の想像なんてたかが知れてる、自分の想像がいつも正しいとか唯一だとか思わないことだな、と。


長くなってしまったので今日はこのへんで。
ストックがあればPM9時に予約投稿されます。
ストックがなければ更新されません。あしからず。


知識と想像力

「本を読むのが好き」と言っても、読む本に偏りがあって、うーん、これって良いことではないな、と。
本から得られる知識、その知識の偏り。偏り……うーん、なんというか、頭を抱えてしまう。


偏った知識をどうにかしたほうがいいと思う一方で、その偏りは専門性がある偏り(よく言えば専門的な深みがある知識)ということもできる。(自分を正当化するというか自己保全ぽいこと書いているなぁと我ながら思うのだが)


まぁ偏った知識は仕方がないとして、その偏っている(専門的)知識を果たしてどれほど生かせているのかな、と。
知識はあっても想像力がなくて、ただ持っているだけにすぎないんじゃないかと。


私の場合、まったく想像力がないわけではないけれど、想像力が乏しいというか、うん、まぁ、そういうことなんだと思う。


「相手の立場に立って考える」とか「相手が考えることを想像する」というが実は苦手で、苦手ゆえになかなかしようとしない。
自分とは違う相手の考えることを想像する。そうすると感じるもの、考えることがおのずと出てくるわけで。(いや、なかなか出てこない人がここにいるわけなんだが)


まぁ、自分のことはあれこれ考える(想像する)癖に、他者の考えることは想像できない……というか想像するのが苦手、難しい。


ちょっと話がそれるけれど、
「自分の苦手を認める」というのは、なかなかできないことだったりする。ついつい見て見ないふりしてしまうというか……。
逆に自分の苦手に焦点を当てすぎて、そのことばかり考えて憂鬱になって、そのうち無気力になる。どうせ自分なんて……と。
苦手なことを考えすぎるのはよくない。


一方で、苦手であっても、どうにかなるんじゃないか、どうにかできるんじゃないかと期待してしまうところから葛藤、悩みは生まれるように思う。
自分への期待。
他者や他のものへの期待をすることも多いのだけれど、それ以上に自分に期待して、負荷をかけていることが本当に多い。
諦めようにも諦められないことは意外と多くて、「諦める」というのにnegativeなイメージがつきまとうせいで、「諦めちゃダメだ」的な路線が常設されてしまう。「諦めたらそこで試合終了」というのも否定するわけではないのだけれども。


話を戻して、
「相手が考えることを想像する」として、その想像が的外れだったりすることもあるので、その点を危惧する。
相手は相手であって、自分ではない。自分とは感じ方も考え方も違う。
自分がこういう風に感じるのだから、相手もこういう風に感じるにちがいないと思うのは、勝手な決めつけに他ならない。
これが私がいちばん嫌うところで、「こもこさん(私のこと)は〇〇だから、△△△だよね」と言われるのが何よりイヤだったりする。
この人は「こもこという人が書いた文章」でこういう風に「こもこという人」を定義するんだなぁと。
その想像はその人独自のものであって、それが必ずしも合っているわけではない。その想像を本人に向かって言うのは押しつけというか無粋というか失礼なんじゃないだろうか。


もちろん、読んだ感想は自由に持っていい。持っていいけれど、それはそれ。書き手は読み手を意識して、擬態して書いているので、「書いたもの」と「書いた人」はイコールではない。もう少し優しい言い方をすると「完全なイコールではない」と書いたほうがいいだろうか。


もう少し書きたいことがあるのだけれど、長くなってしまったので、今日はこのへんで。
続きはストックにあげておこう。
ストックがあれば、PM9時に予約投稿されます。ストックがなければ、更新されませんので、あしからず。



複雑で不明瞭、多種多様で、しかも変化

下の記事を書きながら、混沌とか迷宮とかをテーマにラノベを書きたい気分になったのは内緒にしておきたい。
komoko.hatenablog.com


さて、今日も書く。書きたいことがあるうちに「鉄が熱いうちに打て」的に書く。


言葉もそうだのだけれど、自分の仕事も複雑で不明瞭で、多種多様で、しかも変化していくから、面白いのかもしれない。
もし簡単明瞭で、単純明快だったら、楽かもしれないけれど、多分すぐ飽きる。


自分の手に負えないくらい難しすぎるのは困るけど、複雑で不明瞭なものをどうにかするというのはワクワクする。多種多様で、しかも変化。ほう、どれほどのものか見てみようじゃないか、と。


なんというか、自分のことについても、「私は~だ」みたいに簡単に定義しないほうがいいような気がする。シンプルなほうがいいという考え方もあるけれど、いや、人ってそんなにシンプルにひとことで言えるものじゃないでしょ、と。


自分に二面性があるのはわかっているし、もしかしたら二面どころじゃないかもしれない。いわゆる多種多様?
カテゴライズするのが昔から好きではなくて(苦手で)、ブログでもタグをつけるのが好きではない(どうつけていいかわからないともいうのもあるが)。カテゴリーもタグも否定はしないけれど、まぁそれにとらわれないというのもよいのではないか。


昨日、自分の初期のころの記事を読み返したのだけれど、うん、変わった。ずいぶん変わったね。やはり過去の私は過去の私でしかなくて、今の私とは違う。2024年の秋でこのブログも17歳になるようなので、そりゃまぁ変わるわけで。


このブログ記事が多種多様かどうかはベランダにでも置いておいて、変化しているのは確かだ。
ストックを持つようになったり、予約投稿しはじめたりというのも変化した(変わった)点だ。
「考えたことを文章にする」というのは変わっていないけれど。


複雑で不明瞭なものをどうにかするのが好き。
これはここに書いたからわかったことで、やはり「書くというのは良いこと」なんじゃないだろうか。
「書くことによる気づき」というのはよく言われることかもしれないけれど。


複雑で不明瞭なものをどうにかするのが、たとえ徒労に終わることであったとしても、好きなのだから仕方ない。ざるで砂を運ぶような作業だとしても、ざるだと気づいた瞬間、他の物に持ち換えることもできる。ゴールを変えることもできる。


長くなってしまったので、今日はこのへんで。
ブログのstyleはこれからも変わるかもしれないけれど、1記事は1000字前後というのは、keepしていたい。
ストックがあったらPM9時に予約投稿します。ストックがなければ投稿されませんので、あしからず。



混沌とした迷宮状態

ここのところ「不安」をテーマに書いているのだけれど、
komoko.hatenablog.com
komoko.hatenablog.com
このブログを遡れば、まぁ出てくる出てくる。
昔から息をするように不安を感じているんだなぁと。


不安なものは不安なんだと開き直ってみるのも有りだけれど、どちらかというと、その不安について分析したり言語化するのが好きで、だからこそこのブログも続いているわけで。


多分、分析するに、自分の内側は迷宮状態で、混沌としているのだと思う。そんな混沌とした迷宮を堂々巡りしているから不安になるのだと思う。


なんというか、目指すゴールのようなものはあるのだけれど、なかなかたどり着けず、たとえたどり着いても「ん?なんかちがう?」と。
また違うゴールを設定しなおして、でもなかなかたどり着けなくて…。そういうことの繰り返し。「彷徨(さまよ)う旅人」と書くとなんかかっこいいけど、私の場合「いつまでもゴールにたどり着けない迷子」だ。


ゴールなんか設定しないで、ゆるーくテキトーでいいとも思うのだけれど、それはそれで不安になったりで、アンビバレンツだなぁと。


ゴールを設定してそれに向かって試行錯誤するほうが性格的に合っていると思う一方で、自分で自分の首を絞めている(過労、疲労困憊している)のも事実だなぁと。(なかなかゴールにたどり着けないから)


混沌とした迷宮状態で「いつまでもゴールにたどり着けない迷子」


さきほど「混沌とした迷宮を堂々巡り」と書いたが、正確には「堂々巡りではない」ということに書きながら気づいた。同じところを巡っているわけではない。
思ったゴールではなかったにしろ、Aというゴールに向かって試行錯誤してみて、「うーん?」となって。
次はBというゴールに向かって試行錯誤して「むむむ?」となって。
迷宮は迷宮なのだけれど、AやBといったゴールを目指して、それまでとは違うところを彷徨い歩くという表現のほうがいいだろう。


今書きながら思うのは、この混沌とした迷宮状態が実は好きだったり、心地よかったりするのではないだろうかということ。
長年親しんだというか、住めば都というか。


息をするように不安になっていれば、もうそれは常態(平常の状態)なのかもしれない。
混沌としてるし、迷宮状態だし、でもそれが面白かったりもするし、不安は不安でも十年、十五年前の不安とは違う気がするし、少しはアップデートしているようにも思うし。


まぁ、時々は自分が書いたものを読み返そうかな。


長くなってしまったので、今日はこのへんで。


ストックがあればPM9時に予約投稿されます。
ストックがなければ更新されません。あしからず。


その人にしかわからないもの

不安について、このブログでもいろいろと(?)書いているようだ ↓
komoko.hatenablog.com
読み返して、「んんん?こんなの書いたっけ?」となったのは内緒。
自分で書いたものを読み返すことがほとんどないので、書いたものを忘れることはよくあることだったり。


過去書いたものを読み返して、「なるほど、参考になるなぁ」と思うあたり、完全に他者視点で読んでいるわけで…。


おそらく「過去の私」と「現在の私」は時間的に全く別人で、本当は同一人物でありながら、「過去の自分」は「遠い人」「記憶から消えつつある人」のようなもので、ぶっちゃけ、「過去の自分」をよく覚えていなかったりする。言いかえると、過去の都合の悪い部分は忘れてしまうということかもしれない。


過去自分が誰かにされたことはいつまでも執念深く覚えているくせに、自分がなにかをしたことは都合よく忘れていたりする。自分がしたことを全部を忘れてしまうわけではないけれど、自己保身のための忘却機能が働いているのかもしれない。まぁ防御機能といえば防御機能と言えるのではないだろうか。


さて、話を戻そう。
不安ゆえに何かをしておきたい、対策的な、いざというときの非常時持ち出しセットみたいなものが欲しくなるというのが周期的に湧き上がってくる。
自分にはこれがあるから大丈夫というような安心材料が欲しくて、それが過労に拍車をかけているとも言える。


そもそも、どうしてそんなに不安になるのだろう?
どうして?と自分に問うてもよくわからない。端的に言葉で言えない。
不安なものは不安なのだ。


その不安は、その人にしかわからないもの。


不安を孤独に言い換えてもいい。
苦しさ、生きづらさという言葉に言い換えてもいい。


人はそれぞれ生まれも育ちも違う。その人にはその人にしかわからないものがある。
それを他者が否定することはできないし、逆に簡単にわかると言ってもいけない気がする。


わかってほしいと思う一方で、簡単に「わかる」「それ、わたしも同じ」と言ってほしくなくて、なかなか難しい。
その人にしかわからないものがあるということ。
それがわかっていると、無粋なコミュニケーション(デリカシーのないコミュニケーション)は減るだろうし、やたらと衝突することも減るんじゃないだろうか。


というわけで、長くなってしまったので今日はこのへんで。


ストックがある場合は、PM9時に更新ということにしてます。
ストックがなかったら、更新されませんのであしからず。