自分で定義したものに縛られるということ

愛されたとか幸せだったという記憶が、根底にあると、生きていくうえで、とても支えになるというのはあるかもしれない。


もちろん愛されたとか幸せだったというのは、主観の問題だというのもわかっている。愛されたとか幸せだったとか、そういうのは自分で決めることというか、自分で決めていて、自分で自分を呪縛しているとも言える。


自分で自分の感情や状況を定義して、その自分で定義したものに縛られ、呪縛に苦しんで、憂鬱になって、苛々して、心安らかとは言えない状態はつらいものだ。そのつらさから解放されるには、いったん忘れること、その苦しいことを考えないことだと思う。


考えないことは悪いことなのか。いや、そうではない。考えても考えてもどうしようもないことはあるものだ。それなら、いったん保留にして、気持ちを落ち着かせる時間を持つ。自分をラクにしてあげる。


もっと楽しい、穏やかな気持ちで、日々を過ごして、そういう感情でいるようにするのも自分次第で、自分の感情くらい自分でコントロールしようと、まあ偉そうなことは言えないけれど、自分の感情はコントロールは可能なものだと考える。もっとも、個人差もあるので、ある程度コントロール可能と書いた方がいいかもしれない。


日々不機嫌をデフォルトにしているのは、やはり自分で、それが習慣というか、慣れというか、常態化してしまって、意外と自分では、気づいていないのかもしれない。


自分は不幸だと定義してしまえば、それに縛られる。呪縛で、苦しくなるのは自分で、それは幸せについても言えるのではないだろうか。


誰かなんといおうと、自分は幸せだと自分で定義して、よそと比べない。


定義するのは、自分。
定義したのものに縛られるのも自分。


そんなことを考えたので、忘れないうちに書いておこう。




忘れていくということ

今朝、2016年はじめの出来事を思い出せなくて、戸惑ってしまった。一年半というのは忘れるには十分な時間だろうか。


喜怒哀楽。いろんなことを忘れている自分がここにいる。


普段忙しすぎるからだろうか。


思い出す必要がないと、忘却に拍車がかかるというのはある。


つらいこと、いやなことは、努めて思い出さないようにしているというのもある。


でも、大切な出来事ですら、忘れてしまって、本当に情けなくなる。大切なことなら、忘れないはずなのでは?


どうしたら、忘れないでいられるのだろう。


思い出したいときに思い出せない。それが歯がゆい。


もしかしたら、私の記憶という容量はもういっぱいになってしまったのかもしれない。元々少ない容量で、それに経年劣化も手伝って、昔のことは忘れてしまうのかもしれない。悲しくて、せつなくて、もどかしくて、でも、どうしようもないでいる。

 


昨日よりは今日、今日よりは明日。少しでも前に進んでいく感じが好きだ。

昨日よりは今日、今日よりは明日。
少しでも前に進んでいく感じが好きだ。
積み重ねていくのが好きと言ってもいい。
少しずつ改善していくのも好きだ。


明日はこれとこれをして、今日できなかったことは明日やればいい。焦らずに。


明日はもっと良い日に。
同じようなことの繰り返しのような毎日であっても、決してまったく同じというわけではない。


どんなことが起こるかわからない。
わからないからこそ、平常心、平静で、落ち着いていたい。


前に進んでいくことは楽しいし、うれしい。
誰かに褒めてもらえなくてもいい。自分でわかっていれば、それでいい。


少しでも、ほんの少しでも、前に進めたら、それでいい。途中でやめないこと、失敗しても必要以上に落ちこまない。シリアスに、深刻にならない。


まあなんとかなるでしょう。そう自分に言い聞かせて、口角をあげる。


明日も良い1日になりますように。



人それぞれ感じ方がちがうということ

人それぞれ感じ方はちがう。それは当たり前のことなのだけれど、感じたことを口に出さないと他者には伝わらないものだ。

ある時ふと、ある人の弱気な呟きを目の当たりにして、意外性を感じるとともに、言いようのない寂しさを感じた。弱気な呟きは、簡単に言えば「ここから逃げ出したい」というようなことだった。まあ、誰でもネガティブになって、物事を前向きに明るく考えられないときはあるものだ。それを口にする人と押し隠す人がいて、私が思うに、押し隠す人は決して少なくはないだろう。特に職場などでは、本音や弱音も言わず、つとめて平静を、いつもどおりを装っている人も多いのではないか。


本音や弱音をさらけ出せない人というのはいるものだ。


さらけ出せない理由は、まあ本人自身よくわかっていなかったり。



人それぞれ感じ方はちがう。感じたことを片っ端から口にするのを躊躇うのは、表明したことによる反応が怖いというのはあるかもしれない。


その人の「逃げ出したい」という呟きは、本音であり、本当にそうすることはできなくても、でも口にすることで、わかってほしい、今逃げ出したいくらいつらいということをどうか察してほしいと、そういうことなのだと思う。


逃げ出したいほどのつらさ、それを他者が理解するのは難しい。その人のつらさ、つらい理由を想像はできるけれど、でもその想像が当たっているとは限らない。


つらい気持ちを楽にしてあげたいと思うけれど、でもどうやって?


私以外にもその弱気な呟きに気づいた人はいると思うけれど、でも皆傍観している様子で、まあ、呟いた本人も呟きを深刻に受け止めてほしそうでもなかったので、私も特になにも言わないでいた。というか、何も言えなかった。様子をみたほうがいい、といあるし、その場ですぐに言葉にできなかった。感じたことを表明できなかった。今だから、時間が経ってやっと、弱気な呟きは、つらさからくるもののだとわかる。いや、これも私が感じて、想像した結論で、もしかしたら当の本人が感じていることは、ちがうかもしれない。


人それぞれ感じ方がちがう。むやみやたらと想像してもそれは想像でしかないし、勝手に想像を押し広げるのはよくないように思う。


普段本音や弱音を口にしない人、そう思っているのも、もしかしたら私の先入観かもしれないし、私が感じていることは、私というフィルターを通したもので、つまりは、人の数だけフィルターがあると、まあそういうことになるだろう。そのフィルターは他者は操作不可なので、結局のところ、人はそれぞれ感じたように感じるということ。それはどうすることもできない。どうすることもできないのに、いろいろと気にして、想像してしまって「一体なんなのだろうね」という気持ちになったところで、今日はこのへんで。




「スーパーマンじゃない」ということ

いろいろとうまくいかないことが多くて、落ち込んだり、めんどうになったりすることが続いて、ふと思ったのが、
「わたしはスーパーマンじゃない」
ということ。


まあ当たり前といえば当たり前で、何でもできる、うまくやれる、と思うのはおごり。傲慢というもの。


まあ、うまくいかなくったっていいじゃないか。できないこと苦手なこともそりゃまああるわけで、できることをやってけばいいよ。ぼちぼちと。


期待に添えない自分を責めても仕方ない。失敗したことをいつまでも悔やんでもその失敗は無しにはならない。失敗を引きずるよりは、あきらめる。次、同じような失敗をしないよう、そちらに意識を向ける。


スーパーマンじゃないので、何でもできるわけじゃない。うまくいかないこともある。それはそれで仕方ない。


できることをぽちぽちやっていくしかない。



シンプルにするということ。

とある仕事の問題をいろいろと複雑に考えてしまって、お手上げ状態になっていた。


ここはひとつ、全部書き出して、そこから「大事なこと」を見つけ出そうと、やってみた。


見事に「大事なこと」を見つけ出せた。


それはシンプルにするということ。


手間ひまをかけ、あれこれ盛りこむのも良いことだけれど、しかしながらそうすることで、時間が足りないでいる。


時間を短縮させるには、シンプルにすること。
あれもこれも、と欲張らないこと。


やり方を複雑にすれば良い結果がでるとは限らない。むしろ、複雑さで、もつれ転び倒れしまうかもしれない。とにかく単純に、シンプルに、短く、簡潔に。


ゴールを決め、ゴールが決まったら、あとはシンプルに突き進む。


これからシンプル化計画を実行していこうと思う。



充実感とか達成感とか

充実感とか達成感とか感じるのは、やはり仕事をしているときだと思う。
多少大変であっても、仕事の場合、結果やゴールがあるから、それに向かって進めばよい。


職場の人間関係うんぬんで仕事がうまくいかないとか、働きたくないとか、それもわかる。わかるけれど、仕事そのものにやりがいがあって、面白ければ人間関係は二の次だと最近思うようになった。


嫌味をいう人、細かいクレームをつけてくる人というのはどこにでもいるものだ。思い通りに仕事をさせてくれなかったり、人を駒のように扱ったり。もう少し大切に扱ってもいいんじゃないかと思うこともあるけれど、それは、結局のところ承認欲求がそう思わせているのであって、まあ自然と言えば自然なこと。あまりそのあたりに執着せず、淡々と仕事をこなす、ミスなく仕事を終わらせる(完遂させる)ことに意識を集中したほうがいい。


誰かに認められようと、他者の目ばかり気にしていれば、いつまでも自分の中で満足とか達成感とか感じられぬまま、悶々としてしまうものだ。
逆に、自分なりによくやった、これだけできたから御の字だろうと、自分で認めたほうが、最終的には気分はあがる。自己満足といえば、ネガティブなイメージがつきまとうけれど、でも他者の目を気にしすぎるよりも、むしろ自己満足でいいのではないだろうか。自分なりによくやった、誰がなんと言おうと、それはその人の感想、その人の評価。他者の評価に一喜一憂しない。他者の評価なんて、その時その時で変わるもの。媚びたり、評価をやたら欲しがるそんな人にはなりたくないなと。


評価よりも充実感や達成感。
充実感や達成感のためには、手を抜かないことが一番で、多分そうやっている姿はいつかは誰かが認めてくれるもの。いや、もし、誰も認めてくれなくても、自分的に満足していれば、それで十分だと思う。