『3月のライオン』12巻を読んで思ったこと。家族は支えであり呪縛でもあるということ。

以下、ネタばれあります。ご注意ください。






3月のライオン』の12巻だけに限らないのだけれど、この作品を読んで思うのは家族というのは支えであり、そして呪縛、縛るものでもあるのかな、と。桐山零の生い立ち、歩いてきた道(両親、妹の事故死のあと棋士の家に身を寄せることになった)、そしてこれからも生きていくことを考えると、やはり「家族」なしには考えられない。
12巻の冒頭では、あかりに包容力のある伴侶を・・・とあれこれ思いを悩む零だけれど、いかんせんプロ棋士ではあっても高校生。視野が(候補に挙げる男性の幅が)狭い。川本家の主婦の役割を長女のあかりが一手に背負っているのだけれど、本当に家のことに縛られ、自由に恋愛する時間も、そもそも男性と出会う機会もほとんどなく、むしろあかり自身そんなことをしている暇はない、家族のごはんを作らなくっちゃ、やりくりして節約しなくちゃ、おじいちゃんのお店を手伝わなくっちゃ、と恋愛や新たな出会いを回避しているようにも見える。(ふくふくした体型が彼女の好みではあるようなのだが)。


家事や家族の世話におわれ、自分の時間が持てないにもかかわらず、それでも愚痴を言わない彼女はストイックだと思う。もしかしたら、恋愛や結婚といったものをもう諦めているのかもしれないし、もしかしたら、末の妹(モモ)の手が離れたら(高校生くらいになったら?)、そのときはあかりも自由にやりたいことをやろうと、そう思うかもしれない。今は、件の父親のごたごたも一応収束したばかりで、まだ余裕がないとも言える。父親と絶縁宣言をしたことで、あかりの長女としての責任感はますます増したとも言える。そんな状況で、あの家族に踏み込んできてくれた桐山零の存在は本当に有難く、彼は変化させるキーマンだ。彼自身も変化してきているけれど、変化というのは、相互作用の結果で、ひとりだけで変化するものではない。


変化していくのは世の常で、たぶん少しずつ変わっていくので、あまり気づかずにいるものなのかもしれない。人にはそれぞれのタイムラインがあって、いちいち他の人のタイムラインを気にしていられないというのもある。気がつくと他の人がとんでもなく変わっていて驚くこともあるし、どうかすると見失っていることもある。見失ってしまうと、もうどうなっているのかわからない。おそらく、人の気持ちもそうだ。ずっと同じ気持ちが続いているとは限らない。勝手に今も同じだろうと思っていても、それはあくまでも想像、推測、憶測でしかない。少しずつ変わっていくのが常だと思って、時折それとなく確かめるしかない。


家族であって、やはりひとりひとりにタイムラインがあり、変化がある。変化は時に嵐であったりもするのだけれど、そんなときに支えあえるのは家族で、支えることを押し付けるわけではないけれど、でもやっぱり支えあうものだというのが子どもの頃から刷り込まれていて、それは一種の呪縛でもあるけれど、その呪縛があるおかげで、安心感があるのも否定できない。家族はその一例にすぎないのだけれど、ベースとなるものがあって、その自分のベースが定まって、自分の軸ややるべきことが定まると、人は強くなるように思う。『3月のライオン』では桐山零がその好例だ。


もっとも、家族は支えてくれることもあるけれど、時として呪縛として自由を奪うものにもなるのも事実で、まぁ自分にとって毒にしかならないのであれば逃げるしかない。家族は大切だ、支えあうものだと言われても、首肯できないケースもある。あかりたちの父親がまさにそれで、わたしはあかりたちはあの父親と絶縁宣言をしてよかったと思う。


結局のところ、2000字近く書いたくらいで書き尽くせるものではないのだけれど、でも書き始めてしまったので、書いた分は残しておく。


3月のライオン』物語はまだ続く。彼らがどうなっていくのか楽しみで仕方がない。これから先、どんな嵐がきたとしても、彼らならなんとかしていくだろう。

―どっちにしたって もう
「こっちを選んで
正解だった!!」って
思える様なエンディングを目指して


私たちは
精いっぱい
泳ぐしかないのだ・・・




したり顔の
「運命」ってヤツに


クロールの
ふりをして


「グー」でパンチを
浴びせてやる
その日迄・・・・・・!!!


3月のライオン 12 (ヤングアニマルコミックス)より




転職。「隣の芝生は青く見えた」だけだった。

余所の会社は良さそうに見えるものだ。残業も少なそうで、施設やシステムがきちんとしていそうで、働きやすそうだったり。でも、まあ、良さそう、働きやすそうというのは、あくまでもこちらが勝手に抱いた想像で、実際は違うものだ。
これまで転職するなら少しでも若いうちに…というようなことを書いていたけれど、今は修正したい。取り消すところまではいかないけれど、転職は本当に慎重にやるべきだと思う。勢いや周りに流されての転職は避けるべき。後々後悔する可能性がものすごく高い(経験者は語る)。


ただ、勤めている会社がむちゃくちゃなブラックだとかそういう場合は即転職すべきで、私の基準だと休めない会社はヤバいと思う。体調不良でも休めない。病院に行って、それから直で出勤。今休まれたら業務が回らなくなる。ものすごい綱渡り状態なのはみんな知っているはず…。迷惑だけはかけないでほしい…。面とは言ってこないけれど、雑談に織り交ぜて、聞こえてくるそれらの言葉に、全身が堅くなる。「体調不良くらいで簡単に休めると思うなよ」と、つまりはそういうことだ。


体調管理には気をつけていても、それでも体調を崩すときはある。午前休ではなく、1日休みたいときもある。1日休んだほうが回復もする。体調が悪いときは精神的にも不安定になるものだ。疲れすぎているときも。


休まなければ体調は回復しないし、疲れもとれない。対策としては眠ることだ。睡眠不足で、良いことはひとつもない。


ストレスも眠ることで軽減される。


眠ること。眠ること。眠ること。


今ほしいのは、眠る時間。


夢も見ないくらい、泥のように眠りたい。


眠らないことには今のこの状態からは抜け出せない気がする。



お互いを責め合う関係というのは不毛だ。

タイトルのまんまなのだけれど、「お互いを責め合う関係というのは不毛だな」と、今日帰りながら思った。
不毛。辞書で調べると「なんの進歩も成果も得られないこと」とある。お互い責め合い、言い争い、相手の至らない点を指摘し、少しでも優位に立とうとしたところで、たぶん、それだけでは問題は解決しない。誰にでも長所、短所があり、性格的に合う、合わないがある。それでも、職場や家族など離れることが難しい関係であれば、相手を責めるのではなく、どうすればよくなるのか、お互いのストレスを少しでも軽減させることができるのか、そちらに意識をむけたほうが、お互いのためであり、ひいては平穏につながっていくのかな、と。
根っから好戦的で、舌戦を好む人もいるけれど、おそらくそういう傾向を他の人は変えられない。その人はそういう人で、その人はその人の論理で生きている。それを認め、あとは、振り回されないよう、防御するしかない。精神消耗合戦には最初から参加しないこと。何を考えているかわからない、と言われるかもしれないけれど、それでもいい。私は言い争いたくない。


責められてストレスがかからない人はいないと思う。責めて責めて責めて、その先、その果てにあるのは何なのだろう。


「どうして・・・」「なんで・・・」と責める人を責める自分がここにいる。


あらためてここに書きたい。


お互いを責め合う関係というのは不毛だ。



イライラに囚われるのではなく、気分を変えようとする。積極的に好きなことをする。

ここのところずっとイライラやモヤモヤで苦しく、身動きが取れなくなっていたのだけれど、ようやくここにきてイライラが消え、自分を取り戻せたように思う。


やはり大事なのは、自分の時間を持つことだ。


週末、気分を変えるために出かけた。出かけたといっても旅行などではなく、大型書店なのだけれど、本好きとしては書店に行くだけで、気分が良くなる。前々から読みたいと思っていた本を探した。もちろんネットで注文すれば、すぐに確実に手に入るのだけれど、今回はあえてそうせず、書店員にも聞かず、自分で探した。


探すのは楽しい。
目当てお本を探していると他にも良さそうな本を見つけたり、好きな作家の新刊を目にしたり、気分は高揚していく。フローな状態になっているのが自分でもわかる。


イライラしていたり、心が弱っていたり、落ちこんでいたり、そういうときは、私は家に籠るのではなく、積極的に外に出たほうがよいと思う。私の場合は書店に出かけることなのだけれど、人それぞれ何か気分が良くなる場所、気分が良くなる行動はあると思うので、なにはともあれ、やってみることだ。


書店に行って、お目当ての本を探しながら、ふらふらと本の森を彷徨って、そうするうちにだんだん元気になってきた。


以前も書いたかもしれないけれど、膨大な本を見ながら思うことがある。
こんなにたくさんの本がある。こんなにも本はあるけれど、果たして生きているうちにどれだけの本が読めるのかな、と。本の中には見知らぬ世界がまだまだある。そう考えると、わくわくが止まらない。


自分でも「大丈夫かな」と思うくらい気分が重く苦しかったのだけど、結局のところ、その気分を変える(変えられる)のは自分で、その変え方も自分で見つけるしかないのだと思う。


まぁ無理に出かけなくてもいいし、寝て疲れをとることのほうが大事というときもあるし、疲れているからイライラする、滅入るという場合もあるので、そんなときは積極的に眠ることだ。眠れなくても、横になって体を休める。何度も深呼吸して、気分を落ち着かせる。それだけでも、あとあと違ってくると思う。横になって深呼吸は私もよくしていることなのだけれど、深呼吸を繰り返しているうちに、いつのまにか寝てしまっている。


イライラに囚われるのではなく、気分を変えようとする。積極的に好きなことをする。


今日はこのへんで。


他者に対してマイナスの可能性、ネガティブな結果予想ばかりするのはどうしてだろう。

その人自身が心配性なのかもしれないけれど、単純に心配性なだけどは思えないくらい、マイナスの可能性、ネガティブな結果予想ばかり口にする人がいて、正直言って辟易している。辟易するのは、もしかしたら、私が楽天的で、おおざっぱ、「まぁ大丈夫だろう思考」が強いからかもしれない。


その人とは話をしているとだんだん苦しくなる。相容れないというのは、人の多様性を認めてもなお、やはり感覚で、肌で感じてしまうもののようだ。相手も私の言動や態度にイライラしているようだ。こと細やかな対応を求め、期待し、しかしながら応えてもらえないことはストレスだろう。まぁ、こちらとしても自分のできること以上のことを求められても困るというものなのだが。


まぁ「その人はそういう人なのだ」と受け入れていまえば(諦めてしまえば)楽になるというのある。他者は変えられない。コントロールできない。マイナスの可能性を示唆し、ネガティブな結果予想を口にするのは、これまでその人が経験し、辛酸をなめてきたからかもしれない。失敗したくないという思いが極端に強いのかもしれない。それはわかるけれど、まだ大事にはなっていないのに「もし、~たら、どうするんですか」と声を荒げるのは、やめてほしいと思う。


他者に対してマイナスの可能性、ネガティブな結果予想ばかりするのは、おそらく結果予想する人自身が不安で、なにより他者を信じていない(信じられない)のかもしれない。どうして信じられないかはわからないけれど、他者不信が思考をネガティブにしているのはあるように思う。その人を信じて任せることができず、ついつい口出ししてしまう。もっとこうあるべきだ、と自分の考え方ややり方を押し付けて、相手と軋轢が生じて・・・。


自分の考え方ややり方が経験上とても良いものだとしても、他者に押し付けるのはよくない。自分の考え方ややり方が相手にとってBESTで良い結果になるとは言えないし、むしろ押し付けられて反発するかもしれないし、疎んじられるかもしれない。「やりたい放題を許せ」とは言わないけれど、でもやはり一人の人間としてやっていることは認めてほしい。


声を荒げる人は、不安なものを中に抱えているのだと思う。
不安や不満、モヤモヤが内々に溜まって、とても平穏を保てる状態ではないのだろう。
他者を信じられなくなるというのも、そういう状態なら仕方がないかもしれない。


まぁ仕方がないとは思うけれど、でもやっぱり声を荒げるのはよくないと思う。


そのうち落ち着くとは思うけれど、でもまぁそんな風に根拠なく勝手に予想するのは、これはこれで楽観的すぎるかもしれない。





読むたびに敗北感を感じるブログ

読むたびに敗北感を感じるブログがある。


ブログ名は書かないけれど、この人が書くものには敵わないなぁと素直に思う。


たぶん、経験していること考えていることが私の数倍も数十倍も多く、濃いのだと思う。


自分が書いていることの薄っぺらさを思い知らされる。汎用性を重視して書いているせいで、心の奥底まで降りてくるものがない。心を掴み、訴えるような、そんな文章もない。


でも、それでも、スタイルを変えようとは思わない。アクセス数のためにブログを書いているわけではないし、本当に読みたい人が読んでくれればいい。


評価の話と関係するけれど、仕事で思い切りダメだしされて、でも、その一個人の評価基準に振り回されて、凹みたくないと思った。ブログもしかり。わざわざ読む価値がない、みたいことを言われたことがあるけれど、それはその人の価値基準だ。広い世界。どこかに認めてくれる人がいるはず。続けていれば、きっと、いつかきっと。


あるブログを読んで敗北感を感じるのは、相手の価値を認めているからだと思う。そして自分が書くものと比べてしまう。比べて憂鬱になるのだけれど、でもまぁ、私の場合、こういうものしか書けないのだから仕方ない。


読むたびに敗北感を感じるブログ。


よく考えたら、こんなブログは、なかなかないと思う。


ブログは勝ち負けではないと言う人もいるかもしれないが、一度感じた敗北感はなかなか消えない。


簡単には消えないし、でもまぁそのままでもいいのではないかと思っている。




言葉にする練習

仕事が忙しく、ほとんど読書していないことに気づいた。
インプットが極端に少ないと、ブログを書きたいとかアウトプットしたいということもなくなるようだ。


つらつらと考え、いろいろと感じることはあるのだけれど、言葉が思うように出てこない。


考えたこと、感じたことは確かにあるのに、今は霧散して、無い。思い出せない。


いつのまにか、ただ時間だけがすぎて、ふと思う。


「わたしは何をしていたんだろう」と。


無我夢中。これは良い言葉なのだろうか。


仕事に夢中になるあまり、他のことがおざなりになっている。どうでもよくなっている、と書いてもいい。いろいろなことを言葉にするのが面倒になり、感情も平坦になり、なにより最近のことを思い出せない。


言葉にする練習をしたい。時間がない。めんどくさい、などと思わずに、言葉にすること。読書の習慣を復活させるとともに、考えたこと、感じたことを言葉にする練習をこれからしたい。




最近のことですら思い出せないのは、たぶん疲れているからだろう。
短くてもいいから、日々のことも言葉にして残していこうと思う。



感情類語辞典

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