こつこつ勉強するために、もう一度読み返したい記事2つ

komoko.hatenablog.com
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過去こういう記事を書いたりしているけれど、最近は仕事が忙しく、勉強ができていない。


けれど、今日、こつこつと勉強している人の話を聞いて、私も勉強したくなった。


毎日仕事が忙しいのはその人も私も同じだ。
以前のように時間を決め、その時間、テレビもネットも見ないで勉強しようと思っている。


一度は達成した。資格試験に合格した。次の試験をまた受けるつもりで勉強していたけれど、次の試験は難しく、わからないことばかりで、やる気がだんだんなくなっていった。合格率も低いその試験にすっかり怖気ついたとも言える。


いっそこういうブログという場で勉強することを宣言したほうが、もしかしたら少しは勉強が続くかもしれない。上記の記事を読み返して、またこつこつ勉強したい。


こつこつ勉強する。
毎日30分でも。
アレコレ言い訳せずに勉強しよう。


毎日往復1時間で受かる!  資格試験「通勤電車」勉強法

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「1年続ける」勉強法―どんな試験も無理なく合格!

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「相手の言うことにも一理ある」と考えると、イライラ・モヤモヤが消えた。

人の数だけ考え方がある。まぁ頭ではわかっていても、「なんでそんな風に言うんだろう?」「どうしてそういうやり方でやるの?」と思うことが仕事でしばらく続いていた。


「考え方の違い」と書けばシンプルそうに見えるけれど、ふたつの考え方には深い溝があって、お互い相手の真意をつかめないでいて、「本当のところどう考えてるの?」とお互い言い出せないでいるみたいな、そういうことは私の場合よくある。


率直に意見や考えていることをばんばん言ってくれる人だとよいけれど、なかにはそんなにオープンにはしない人もいるもので、そういう人は、小出しに出てくる言葉を汲み取るしかない。無理に聞き出そうとしないこと。自分のパーソナルスペースに踏み込まれることを嫌う人や他者の言葉で心の安寧をかき乱されたくない人もいる。わたしもそういうタイプなのだけれど、自分が無遠慮に踏み込まれたくないからこそ、わたしも遠慮する。波風を立てたくないし、立てられたくない。


とはいえ、仕事だとそうも言っていられない。小出しにしながらも、「どうして?」「なんで?」と思うことは出てくる。


理由を直接聞ければいいのだけれど、直接聞けない場合もあるし、相手がうまく言語ができない場合もある。そういうときは、相手がそうする理由を想像することにした。どうして、そうするのか。一体何を目的にそうするのか。その人はどうしたいのか。その人が見据えているゴールを想像してみる。もしかしたら、そのゴールはわたしが思うゴールと違うかもしれない。


実際、違った。相手が見据えているゴールは、わたしが思い描いていたゴールよりもはるかに上のゴールで、なんというか、わたしは自分の近視眼的な視界を恥ずかしく思い、うなだれてしまった。目の前のことをこなし、とにかく先を急ぐことしか考えていなかった。


「相手が言うことにも一理ある」
相手も考えて仕事をしている。むしろ、自分よりももっと俯瞰的に全体を見て、仕事をしている。相手が見据えたゴールがわかって、わたしは相手のやり方を尊重しようと思った。むしろ、そのやり方のほうがよいと思った。やっとイライラ・モヤモヤが消えた。


相手の言うこと・することの背景、見据えているもの(ゴール)を想像するようにしようと思った。変に勘ぐってもよくないけれど、でも相手には相手の考え方や事情があるのだから。



燃え尽きかけて思ったこと

この夏はなかなかハードで、燃え尽きかけた。
燃え尽きかけただけで、完全に燃え尽きたわけではない。
もし、完全に燃え尽きていたら、どうなっていただろう。燃え尽きた自分を想像するとゾッとする。おそろしいおそろしい。


このままじゃヤバイよ?わかってる?限界って言葉知ってるよね?


燃え尽きるその前に自分にストップをかけた。ストップをかける自分がまだ生きていてよかった。


今は10月。少し落ち着いた。
燃え尽きかけていることに気づいた私がしたこと。それは仕事を減らすことだった。


このまま無理して仕事をすれば必ず身体を壊す。もしくは、疲労からとんでもない失敗をする。そう考えた私は仕事を減らすための段取り(調整)をを即実行した。私にしては珍しい。即断即決だった。すんなり仕事が減ったわけではないけれど、でも譲れない部分は絶対に譲らなかった。こんなにも強気な自分が表にでてくることに自分でも驚いた。静かだけれど、自分の意思を曲げない人だと周囲から認識されて、私は安堵した。あれこれと理由をつけて言いくるめられるのはもうイヤだった。相手を思うとおりに操作したがる口達者な人たちにはいい加減うんざりしていた。


周りに迷惑をかけるとか、仕事を減らすことで収入が減るとか、自分の評価が下がるとか、評価が下がり仕事自体がなくなるとか、まあいろいろ考えた。けれど、やはり自分の身体が壊れてしまうほうが問題だと思った。


身体を壊したら元も子もないというのは、当たり前のことだけれど、渦中、無我夢中のときは、妙にテンションが高かったり、気負っていたりで、無理していることに気づかないものだ。


仕事を減らしてよかった。ストレスが減った。収入も減ったけれど、もう、あのストレスフルな毎日には戻りたくない。


燃え尽きかけて思ったこと。
のんびりいこう。のんびりマイペースが私には合っている。無理はよくない。


もっと気楽に。やりたいことをやっていこう。


仕事・人間関係 「もう、限界! 」と思ったとき読む本

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会社、仕事、人間関係で「いい人」でいることがイヤになったとき読む本

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ものごとに動じない人の習慣術 (KAWADE夢新書)

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『3月のライオン』12巻を読んで思ったこと。家族は支えであり呪縛でもあるということ。

以下、ネタばれあります。ご注意ください。






3月のライオン』の12巻だけに限らないのだけれど、この作品を読んで思うのは家族というのは支えであり、そして呪縛、縛るものでもあるのかな、と。桐山零の生い立ち、歩いてきた道(両親、妹の事故死のあと棋士の家に身を寄せることになった)、そしてこれからも生きていくことを考えると、やはり「家族」なしには考えられない。
12巻の冒頭では、あかりに包容力のある伴侶を・・・とあれこれ思いを悩む零だけれど、いかんせんプロ棋士ではあっても高校生。視野が(候補に挙げる男性の幅が)狭い。川本家の主婦の役割を長女のあかりが一手に背負っているのだけれど、本当に家のことに縛られ、自由に恋愛する時間も、そもそも男性と出会う機会もほとんどなく、むしろあかり自身そんなことをしている暇はない、家族のごはんを作らなくっちゃ、やりくりして節約しなくちゃ、おじいちゃんのお店を手伝わなくっちゃ、と恋愛や新たな出会いを回避しているようにも見える。(ふくふくした体型が彼女の好みではあるようなのだが)。


家事や家族の世話におわれ、自分の時間が持てないにもかかわらず、それでも愚痴を言わない彼女はストイックだと思う。もしかしたら、恋愛や結婚といったものをもう諦めているのかもしれないし、もしかしたら、末の妹(モモ)の手が離れたら(高校生くらいになったら?)、そのときはあかりも自由にやりたいことをやろうと、そう思うかもしれない。今は、件の父親のごたごたも一応収束したばかりで、まだ余裕がないとも言える。父親と絶縁宣言をしたことで、あかりの長女としての責任感はますます増したとも言える。そんな状況で、あの家族に踏み込んできてくれた桐山零の存在は本当に有難く、彼は変化させるキーマンだ。彼自身も変化してきているけれど、変化というのは、相互作用の結果で、ひとりだけで変化するものではない。


変化していくのは世の常で、たぶん少しずつ変わっていくので、あまり気づかずにいるものなのかもしれない。人にはそれぞれのタイムラインがあって、いちいち他の人のタイムラインを気にしていられないというのもある。気がつくと他の人がとんでもなく変わっていて驚くこともあるし、どうかすると見失っていることもある。見失ってしまうと、もうどうなっているのかわからない。おそらく、人の気持ちもそうだ。ずっと同じ気持ちが続いているとは限らない。勝手に今も同じだろうと思っていても、それはあくまでも想像、推測、憶測でしかない。少しずつ変わっていくのが常だと思って、時折それとなく確かめるしかない。


家族であって、やはりひとりひとりにタイムラインがあり、変化がある。変化は時に嵐であったりもするのだけれど、そんなときに支えあえるのは家族で、支えることを押し付けるわけではないけれど、でもやっぱり支えあうものだというのが子どもの頃から刷り込まれていて、それは一種の呪縛でもあるけれど、その呪縛があるおかげで、安心感があるのも否定できない。家族はその一例にすぎないのだけれど、ベースとなるものがあって、その自分のベースが定まって、自分の軸ややるべきことが定まると、人は強くなるように思う。『3月のライオン』では桐山零がその好例だ。


もっとも、家族は支えてくれることもあるけれど、時として呪縛として自由を奪うものにもなるのも事実で、まぁ自分にとって毒にしかならないのであれば逃げるしかない。家族は大切だ、支えあうものだと言われても、首肯できないケースもある。あかりたちの父親がまさにそれで、わたしはあかりたちはあの父親と絶縁宣言をしてよかったと思う。


結局のところ、2000字近く書いたくらいで書き尽くせるものではないのだけれど、でも書き始めてしまったので、書いた分は残しておく。


3月のライオン』物語はまだ続く。彼らがどうなっていくのか楽しみで仕方がない。これから先、どんな嵐がきたとしても、彼らならなんとかしていくだろう。

―どっちにしたって もう
「こっちを選んで
正解だった!!」って
思える様なエンディングを目指して


私たちは
精いっぱい
泳ぐしかないのだ・・・




したり顔の
「運命」ってヤツに


クロールの
ふりをして


「グー」でパンチを
浴びせてやる
その日迄・・・・・・!!!


3月のライオン 12 (ヤングアニマルコミックス)より




転職。「隣の芝生は青く見えた」だけだった。

余所の会社は良さそうに見えるものだ。残業も少なそうで、施設やシステムがきちんとしていそうで、働きやすそうだったり。でも、まあ、良さそう、働きやすそうというのは、あくまでもこちらが勝手に抱いた想像で、実際は違うものだ。
これまで転職するなら少しでも若いうちに…というようなことを書いていたけれど、今は修正したい。取り消すところまではいかないけれど、転職は本当に慎重にやるべきだと思う。勢いや周りに流されての転職は避けるべき。後々後悔する可能性がものすごく高い(経験者は語る)。


ただ、勤めている会社がむちゃくちゃなブラックだとかそういう場合は即転職すべきで、私の基準だと休めない会社はヤバいと思う。体調不良でも休めない。病院に行って、それから直で出勤。今休まれたら業務が回らなくなる。ものすごい綱渡り状態なのはみんな知っているはず…。迷惑だけはかけないでほしい…。面とは言ってこないけれど、雑談に織り交ぜて、聞こえてくるそれらの言葉に、全身が堅くなる。「体調不良くらいで簡単に休めると思うなよ」と、つまりはそういうことだ。


体調管理には気をつけていても、それでも体調を崩すときはある。午前休ではなく、1日休みたいときもある。1日休んだほうが回復もする。体調が悪いときは精神的にも不安定になるものだ。疲れすぎているときも。


休まなければ体調は回復しないし、疲れもとれない。対策としては眠ることだ。睡眠不足で、良いことはひとつもない。


ストレスも眠ることで軽減される。


眠ること。眠ること。眠ること。


今ほしいのは、眠る時間。


夢も見ないくらい、泥のように眠りたい。


眠らないことには今のこの状態からは抜け出せない気がする。



お互いを責め合う関係というのは不毛だ。

タイトルのまんまなのだけれど、「お互いを責め合う関係というのは不毛だな」と、今日帰りながら思った。
不毛。辞書で調べると「なんの進歩も成果も得られないこと」とある。お互い責め合い、言い争い、相手の至らない点を指摘し、少しでも優位に立とうとしたところで、たぶん、それだけでは問題は解決しない。誰にでも長所、短所があり、性格的に合う、合わないがある。それでも、職場や家族など離れることが難しい関係であれば、相手を責めるのではなく、どうすればよくなるのか、お互いのストレスを少しでも軽減させることができるのか、そちらに意識をむけたほうが、お互いのためであり、ひいては平穏につながっていくのかな、と。
根っから好戦的で、舌戦を好む人もいるけれど、おそらくそういう傾向を他の人は変えられない。その人はそういう人で、その人はその人の論理で生きている。それを認め、あとは、振り回されないよう、防御するしかない。精神消耗合戦には最初から参加しないこと。何を考えているかわからない、と言われるかもしれないけれど、それでもいい。私は言い争いたくない。


責められてストレスがかからない人はいないと思う。責めて責めて責めて、その先、その果てにあるのは何なのだろう。


「どうして・・・」「なんで・・・」と責める人を責める自分がここにいる。


あらためてここに書きたい。


お互いを責め合う関係というのは不毛だ。



イライラに囚われるのではなく、気分を変えようとする。積極的に好きなことをする。

ここのところずっとイライラやモヤモヤで苦しく、身動きが取れなくなっていたのだけれど、ようやくここにきてイライラが消え、自分を取り戻せたように思う。


やはり大事なのは、自分の時間を持つことだ。


週末、気分を変えるために出かけた。出かけたといっても旅行などではなく、大型書店なのだけれど、本好きとしては書店に行くだけで、気分が良くなる。前々から読みたいと思っていた本を探した。もちろんネットで注文すれば、すぐに確実に手に入るのだけれど、今回はあえてそうせず、書店員にも聞かず、自分で探した。


探すのは楽しい。
目当てお本を探していると他にも良さそうな本を見つけたり、好きな作家の新刊を目にしたり、気分は高揚していく。フローな状態になっているのが自分でもわかる。


イライラしていたり、心が弱っていたり、落ちこんでいたり、そういうときは、私は家に籠るのではなく、積極的に外に出たほうがよいと思う。私の場合は書店に出かけることなのだけれど、人それぞれ何か気分が良くなる場所、気分が良くなる行動はあると思うので、なにはともあれ、やってみることだ。


書店に行って、お目当ての本を探しながら、ふらふらと本の森を彷徨って、そうするうちにだんだん元気になってきた。


以前も書いたかもしれないけれど、膨大な本を見ながら思うことがある。
こんなにたくさんの本がある。こんなにも本はあるけれど、果たして生きているうちにどれだけの本が読めるのかな、と。本の中には見知らぬ世界がまだまだある。そう考えると、わくわくが止まらない。


自分でも「大丈夫かな」と思うくらい気分が重く苦しかったのだけど、結局のところ、その気分を変える(変えられる)のは自分で、その変え方も自分で見つけるしかないのだと思う。


まぁ無理に出かけなくてもいいし、寝て疲れをとることのほうが大事というときもあるし、疲れているからイライラする、滅入るという場合もあるので、そんなときは積極的に眠ることだ。眠れなくても、横になって体を休める。何度も深呼吸して、気分を落ち着かせる。それだけでも、あとあと違ってくると思う。横になって深呼吸は私もよくしていることなのだけれど、深呼吸を繰り返しているうちに、いつのまにか寝てしまっている。


イライラに囚われるのではなく、気分を変えようとする。積極的に好きなことをする。


今日はこのへんで。